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おかの ちじゅう

岡野知十

おかの ちじゅう

1860.3.11(安政7.2.19)〜 1932.8.13(昭和7)

明治・大正・昭和期の編集人、俳人

埋葬場所: 6区 1種 16側

 蝦夷日高様似(北海道様似郡様似町)出身。東京府士族で箱館蝦夷地(北海道函館)在勤官吏などを務めた木川昭胤(きかわ あきたね:同墓)の4男として生まれる。嘉永七年に岡野英三(同墓)が亡くなり絶家となっていた岡野家を再興するために、1878(M11)岡野家の家督を継ぎ岡野姓となる。旧姓は木川。通称は正之助。本名は岡野敬胤(おかの けいいん)。号が知十であるが、他にも正味、綾川、借蒼居、我物庵、傘雪、月庵、味余亭、清浅窓など多数ある。
 1878(M11)岡野姓となり岡野敬胤として北海道最初の新聞「函館新聞」の編集人となる。1879「与し余談」の創刊に携わる。東京に出て小新聞界で活動をしたが、1881(M14)函館師範学校附属小学校の予備教員として函館に戻る。しかし病気のため退任して、函館新聞の編集人に復帰。同.8.28〜同.9.7 野村康直編集長に代わり代理編集長を務める。同.9 「北海道学事新報」が創刊され編集に携わる。
 同.12 函館教育協会が設立され書記に就任。『北海道学事新報』第6号に「函館教育協会」と題する論説を発表して、勧農協会を意識しつつ、函館教育協会の設立された意義を唱え、「全道教育ノ進歩」を最終目標とする函館教育協会の設立に、発起人の一員として参加した経過を述べ、あわせて全道教育者中の「有志」に対し、協会への積極的参加を呼びかけた。
 以後も函館新聞の編集人を務めながら、様々なペンネームで記事を書き、1883(M16)『可愛良集』を岡野敬胤名義で刊行した。1889.7 函館新聞を辞して上京し、東京毎日新聞や報知新聞などの記者として活動。
 1895(M28)毎日新聞に「俳諧風聞記」を連載し俳壇に登場。当時の俳壇を新派の正岡子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深く語る。これが評判を得、1901『半面』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。この頃より「知十」を使用することが増える。この間、1898『一茶大江丸全集』『也有全集』の校訂を手掛けた。1905 著書『俳趣と画趣』において「写生式」に対し「図案式俳句」を唱えたが、'15(T4)中根岸に移ってからは俳壇とは没交渉の落ち着いた生活を送った。
 主な編著書に、『俳諧 すずめ』『雨華抱一』『晋其角』(1900)、『俳諧風聞記』(1902)、『玉菊とその三味線 』(1920)、『鶏旭』(1921)、『湯島法楽』『蕪村その他 俳諧一家言』(1924)がある。出版社の郊外社と関係が深く、『郊外』という雑誌も主宰していた。また俳句の史的研究のため収集していた俳書収集家としても著名であったが、'23関東大震災を機に、所有する俳書を東京帝国大学の図書館に寄贈、「知十文庫」として収められている。
 角丸商會取締役を務めながら俳句を発表していたが、'32.2(S7)体調を崩し、熱海で保養、鎌倉稲村ヶ崎黄鳥荘に転じてからは散歩などの静かな日々であったが、胃がんのため逝去。享年72歳。没後、子のフランス文学者の岡野馨(同墓)が父の作品を編集し、'33句集『鶯日 乾、坤 知十句集』、'34小唄集『味餘』が刊行された。

<20世紀日本人名事典>
<明治新聞雑誌関係者略伝>
<函館市史 通説編2>
<人事興信録>


*墓所内には二基の同じ和型墓が建ち、左側が「岡墅氏墓」(野の旧字)、右側が「木川氏墓」。裏面は野村家は「昭和八年八月十三日 建之」、木川家は「昭和八年八月建之」と刻む。それぞれの墓石の横に岡野家と木川家の墓誌が建つ。墓誌には岡野家は「昭和七年八月十三日 谷中墓地より改葬」、木川家は「「昭和七年八月九日 谷中墓地より改葬」との刻みから始まる。岡野家墓誌に「俳名知十敬胤」と刻み、戒名は本覺院知十日法居士。妻は りへ (1870-1944:旧姓は藤田)。

*木川家代々の墓(岡野家代々も北海道から改葬)は元々「谷中霊園」にあった。菩提寺は世田谷の幸竜寺。1927(S2)親友の13代守田勘弥(1-1-6-8)が「守田家累代之墓」(T14建之)を多磨墓地に移したこともあり、岡野家代々の墓も多磨墓地に移すことを勧められ、5年後に改葬した経緯がある。墓石は岡野知十の一周忌に木川家と一緒に建てられた。

墓所 石碑 墓所

*「岡野家」と「木川家」の墓石の間に青石がどっかりと座している。その青石には下記が刻む。

「釜かけて 誰待つとしもなく 雪に  知十」

 岡野知十の一周忌(1933)の記念に知巳友人により建立、贈られたものである。贈られた雪、月、花の句碑のひとつ「雪」の句である。なお、月の句碑〈名月や銭かねいはぬ世が恋し〉は江東区冬木弁財天境内に、花の句碑〈仏生も復活も花笑ふ日に〉は北区王子の飛鳥山公園にある。

※以前は墓所内の青石の横に「平成三年二郎記」とある句碑 の説明板が立っていたが現在はない。岡野二郎は岡野馨の次男で岡野家当主。二郎は知十の句集などの再版を手掛けた。


【岡野家と木川家】
 木川家の墓誌より、岡野知十の実父である木川昭胤が明治13年6月6日に73才で亡くなっている。昭胤の妻の治との間には多くの子どもを儲けており、4男であった敬胤こと知十は断絶していた岡野家の養子となる。ところが、子沢山であった木川家であるが、明治の時代だけで、昭胤の3男の正胤(33才歿)、4女の粂(27才歿)、次男の光大(40才歿)、5女の楽(55才歿)と早死ではないが若い年齢で亡くなっている。長男の情報は不明であるが、木川家の将来を見込み、知十の次男の恵二郎が木川家の養子となる。木川恵二郎は戯曲作者として才に秀て13代守田勘弥らに認められ、将来を渇望されるも、27才の若さで亡くなった。
 一方、岡野家の墓誌より、岡野敬胤こと知十と りへ との間に4男4女を儲けたが、明治期の間に幼少にて2男2女が早死。長男で家督を継いだのが岡野馨。岡野馨は墓誌に「陸軍大学教授 正五位勲五等」と刻む。馨の戒名は圓覺院法純日馨居士。妻は美枝(1900-1974:旧姓は赤倉)。馨の長男で早死した誠一郎も眠る。馨の次男の二郎が継いだ。5男の静一は藤田英次の養子。

※岡野知十の父の名を人事興信録には「木川照胤」と書かれているが、墓誌には「昭胤」と刻むため、「木川昭胤」と統一する。


【函館教育協会】
 「函館教育協会」の前身の名称は「教員練習会」。「函館教育協会」発足以降は、「函館教育会」、「大日本教育会北海道支部函館分会」と名称の変遷を経て活動を続ける。初期の頃は教員の集まりで、教育の振興を図る自主的な研究団体であったが、学校教育だけの枠にとどまらず、音楽会や講演会の開催、水泳会や林間学校の開設、児童雑誌の刊行、各種表彰など一般市民を対象とした事業も行うようになる。戦後、1951(S26)函館郷土文化会が設立されたが、趣旨や会員などに重なりが多く見られることから統合の話が持ち上がり、'58.2.24北海道教育委員会の設立認可を得て、事業を統合し「社団法人函館文化会」が誕生した。2013.4.1(H25)北海道知事から認可を受け「一般社団法人 函館文化会」として再発足して現在に至る。

<函館文化会の歴史>



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