類最初の総力戦 World War I
   中央同盟国
Versus
   連合国
第一次世界大戦とは
第一次世界大戦(World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。
第二次世界大戦が勃発する以前は、世界大戦争(World War)と呼ばれていた。
あるいは大戦争(Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。



各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。
多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。
しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。

連合国海軍は開戦と共にドイツ本国を海上封鎖した。
貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。
戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。
1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ北海への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけてユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。

1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク首相を説き伏せて、Uボートによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。
この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり50万トンまで達し、4月に86万トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。

   第一次世界大戦における主な海戦   

ゲーベン追跡戦

ゲーベン追跡戦とは第一次世界大戦勃発時に地中海で生起した軍事行動であり、イギリスの地中海艦隊が巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウからなるドイツの地中海艦隊の行動を妨害しようとしたものである。
ドイツ艦隊はイギリス艦隊から逃れ、ダーダネルス海峡を通過してコンスタンティノープルに至った。このことはオスマン帝国が同盟国側で第一次世界大戦に参戦するきっかけとなった。



黒海方面の戦い

サールィチ岬の海戦
サールィチ岬の海戦は、第一次世界大戦初期にクリミア半島南端のサールィチ岬沖においてロシア帝国艦隊とドイツ帝国・オスマン帝国艦隊の間に行われた海戦である。





ガリポリの戦い
連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島 に対して行った上陸作戦。
イギリスではこの戦いをダーダネルス戦役と呼ぶ。


コロネル沖海戦
1914年11月1日
コロネル沖海戦は第一次世界大戦において、中国の青島に配備されていたドイツ海軍東洋艦隊とイギリス海軍との間の海戦。


フォークランド沖海戦
1914年12月8日
フォークランド沖海戦(Battle of the Falkland Islands)は第一次世界大戦中にアルゼンチン近くの英領フォークランド諸島沖でドイツ海軍東洋艦隊とイギリス海軍が戦った海戦。



エムデン号通商破壊戦
第一次世界大戦において、ドイツ海軍東洋艦隊から離脱した軽巡洋艦エムデンは、主にインド洋方面で冒険的な通商破壊戦を行い、耳目を集める戦果を挙げたことで知られる。
オーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」に撃沈されるまで、戦果として、30隻を越える連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。

ドッガー・バンク海戦
1915年1月24日
北海のドッガー・バンクで起きたドイツ海軍とイギリス海軍との間の海戦。
ドイツ海軍のフランツ・フォン・ヒッパー少将は巡洋戦艦隊を用いてイギリス東岸の3都市に攻撃、スカーボロ(ノースヨークシャー州)で18人の市民が死亡し、ウィトビー、ハートルプールではそれ以上の市民が犠牲になった。
しかしヒッパーの艦隊はドッガー・バンクでイギリス連合艦隊の迎撃を受けた。
最終的にドイツ艦ブリュッヒャーが撃沈されたが、イギリス艦隊はいくつかのミスのため、ドイツ艦隊を取り逃がしてしまった。

ゴットランド島沖海戦
1915年7月2日
ゴットランド島沖海戦とは、第一次世界大戦中にバルト海で生起した海戦のひとつであり、ドイツ海軍とロシア海軍が交戦した。









ジュットランド沖海戦
1916年5月31日-6月1日
ユトランド沖海戦、またはスカゲラックの戦いは、デンマークのユトランド半島沖で生起した第一次世界大戦最大の海戦。
同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦であった。
イギリスはドイツより多くの艦船と乗員を失ったが、ビーティーの艦隊を殲滅しようとするシェアの作戦も失敗に終わった。戦争の残りの期間、1916年8月と1918年4月の短い出撃を除いて大洋艦隊は港に留まっていた。
ドイツ艦隊の脅威は続き、イギリス艦隊主力は北海に集中せざるを得なかったが、ドイツが二度と制海権を争うことはなかった。
その代わり、ドイツ海軍は潜水艦を用いた通商破壊作戦(無制限潜水艦戦)に注力することになる。

ルシタニア号事件
1915年5月7日
1915年5月7日にドイツ海軍の潜水艦「U-20」より、南部アイルランド沖15 kmの地点で雷撃を受け、わずか18分で沈没した。短時間での沈没のため船内から脱出できなかった乗客1,198名が死亡した。
ルシタニアの犠牲者の中には128名ものアメリカ人旅行客が含まれていたことから以後アメリカ国内ではドイツに対する世論が急速に悪化、これが2年後のアメリカ参戦のひとつの伏線となった。





その他
各海戦に出動していない艦船を含む。

ロシア帝国海軍 戦艦セバストーポリ

日本海軍 巡洋戦艦 金剛

ドイツ海軍 仮装巡洋艦 ゼーアドラー

Wikipedia 参照
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