エムデン(SMS Emden)
エムデンは、ドイツ帝国海軍のドレスデン級小型巡洋艦の1隻。艦名はエムス川沿いにあるドイツの都市、エムデンに由来する。第一次世界大戦において、主にインド洋方面で冒険的な通商破壊戦を行い、耳目を集める戦果を挙げたことで知られる。オーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」に撃沈されるまで、戦果として、30隻を越える連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。
エムデンは1906年4月6日にダンチヒ工廠で起工、1908年5月26日に進水し、1909年7月10日に就役した、同海軍にとっては最後の石炭燃焼レシプロ機関艦であった。
姉妹艦の「ドレスデン」は直結タービンを使用していた。

1910年4月1日にエムデンは東アジア巡洋艦戦隊に加わり、ドイツの植民地があった中国・山東省の青島(チンタオ)基地に配備された。以降、エムデンはドイツ本国に帰還していない。そこにおいては、優雅な外観から「東洋の白鳥」との愛称で呼ばれた。
ミューラー艦長は、海軍史の熱心な研究家であり、日露戦争において、日本軍がロシアの旅順艦隊を旅順港に封じ込め、最終的に全滅させたことを良く知っていた。そのため、ヨーロッパより戦争の危機とのニュースが届くと、ロシア艦隊の轍を踏まないことを留意し、出航準備を整えた1914年7月31日には青島を出港した。8月2日に洋上において、第一次世界大戦勃発・ドイツの対ロシア宣戦布告の報を受けた。
8月4日に対馬海峡において、ウラジオストクに向かっていたロシアの貨客汽船「リャザン(3,500トン)」を拿捕し、ともに青島へ回航、8月6日に入港した。
8月12日に、パガン島にて東アジア巡洋艦戦隊の主力との合流に成功する。シュペー提督はエムデンに戦隊に留まる事を求めたが、ミューラー艦長はインド洋方面において、通商破壊戦を行う事を進言し、単独で行う事を条件に、それは認められた。
艦隊は8月13日夜にパガン島を離れた。8月14日、エムデンは東へ向かう艦隊と別れ、石炭を積んだHAPAGの汽船マルコマニアとともに南西へと進路をとった。
1914年9月中に、エムデンは主にベンガル湾で中立国のイタリア・ノルウェー各一隻を含む17隻の船を拿捕した。拿捕した殆どのイギリス船舶は艦砲もしくは爆薬の設置により撃沈されたが、石炭輸送船はエムデンでも石炭を使う為に引き連れ、一部の船舶は拿捕の後、捕虜となった船舶乗員を乗せ、解放された。ミューラー艦長の行動は戦時国際法に則った紳士的な振る舞いであり、船舶乗員は丁重に扱われた。
エムデンはコロンボ・カルカッタ航路へ向かい、9月10日にはイギリス船インダスを停船させその搭載物資を移載後沈めた。翌日にもイギリス船ローバットを発見し、沈めた。カルカッタへ向かったエムデンは9月12日にはアメリカ向け貴重品を載せたイギリス船カビンガとイギリス石炭運搬船キーリンを停船させ、キーリンは食料が運び出された後13日に沈められた。9月13日にも紅茶を積んだイギリス船ディプロマットを沈めた。9月14日、沈められた船の乗組員がカビンガで解放された。またこの日石炭運搬船トラボックとイギリス貨物船クラン・マゼソンを沈めた。これらの間に出会ったイタリア船ロダリノや、解放したカビンガにより存在が知られたため、エムデンのカルカッタ沖での行動は終了した。
エムデンによる通商破壊はインド洋の連合軍通商航路に大きなパニックを巻き起こした。商船の戦時保険料が急騰し、多くの船舶が出港を見合わせた。これはたった一隻の巡洋艦による影響としては大きなものであった。
続いてエムデンは西へ向かい9月22日にマドラスを砲撃した。エムデンは17時にマルコマニアを分離すると4本煙突に擬装して17ノットで目標へ向かった。擬装用の煙突はエムデンが3本煙突なのに対してイギリス巡洋艦が2本または4本煙突であることから用意されたもので、イギリス巡洋艦ヤーマスのものに似せて作られていた。21時45分には海岸から2800から3000メートルに接近し、停止すると砲撃を開始した。エムデンは最初は砲台を砲撃し、それから石油タンクを砲撃して炎上させた。砲台からの反撃もあり、9発が発射されたもののエムデンに命中はしなかった。125から130発を発射するとエムデンは砲撃をやめ、航海灯をつけたまま北へ向かい、陸が見えなくなると明かりを消して南へ向かった。
砲撃により35万ガロンの燃料油が焼失し、港湾施設の多くが破壊された。マドラスの人的被害は少なかったが、油貯蔵地区では4人が死亡。また被弾した船でも一人が死亡し、それはエムデンの攻撃で死亡した唯一の商船乗組員であった。この攻撃は市民に大きな心理的影響を与え、イギリスの権威を失墜させた。多くの人々が更なる攻撃を恐れて逃げ出した。その後、エムデンはイギリス領マレーのペナンに向かった。10月28日未明、4本煙突のイギリスの巡洋艦に偽装して港へ接近、港内に侵入後にドイツ軍旗(戦闘旗)を掲揚して攻撃を開始した。まず日本海海戦にも参加したロシア帝国の旧式小型防護巡洋艦「ジェームチュク」に射距離300mから魚雷を発射して命中させ、撃沈する。港内にいたフランス軍駆逐艦3隻は反撃を試みたものの、エムデンに命中弾を与えることができなかった。ペナン港を去るにあたりエムデンは「我、今、ペナンを去らんとす。用無きや?エムデン」と皮肉とユーモアをこめた無電を発している。
さらにエムデンはペナン港外に離脱した後、イギリス商船「グレンターレット」に遭遇。これを拿捕しようとしたとき、ペナンへ向け航行中のフランス駆逐艦「ムスケ」に発見され、戦闘となったが、エムデンは砲撃によりムスケを撃沈している。この時点で、累計70隻以上の連合軍の艦船が、インド洋でエムデンの捜索に向けられていた。その頃、イギリスの洋上無線の基地は、ココス諸島のディレクション島に設置されていた。ミューラー艦長は、この基地の破壊を計画し、1914年11月9日朝にディレクション島に到着した。艦の乗員約50名で、陸戦隊を編成し、島に上陸した。エムデンにとって不幸なことに、陸戦隊の上陸直前に、ディレクション島の無線基地は、不審な艦影の発見により、緊急電報を発信していた。このとき偶然、オーストラリアの軽巡洋艦「シドニー(排水量5,400トン、15.2cm砲8門)」や「メルボルン」、日本の巡洋戦艦「伊吹」などが船団を護衛し、島から80km、時間にして2時間の地点を航行中であった。6時55分、シドニーがディレクション島へ急行を開始した。
エムデンの10.5cm砲は第一次大戦のレベルでは能力不足であった。シドニーの接近を見たミューラー艦長は、汽笛により陸戦隊の帰還を呼びかけるも間に合わず、抜錨し、戦闘準備を行う。9時40分にエムデンは砲撃を開始し、シドニーも反撃を行った。シドニーはエムデンより大型・優速であり、主砲の口径も10.5cm砲のエムデンよりも15.2cm砲は射程が長く優越していた。また、シドニーは水線部と甲板に防御を持つのに対しエムデンの装甲は30mmと薄い上に甲板部しか防御されない上に、長期の航海により各所に状態の思わしくない箇所を抱えていた。砲撃戦は1時間半ほど続き、シドニーの砲撃によりエムデンは主砲、射撃指揮所などに大きな損害を受けた。ミューラー艦長は損傷したエムデンの沈没を避けるため、11時15分、北キーリング島に故意に座礁させた。シドニーは、付近にいた補給船ブレスクを捕捉するために一時エムデンから離れたが、ブレスクが自沈した為に、16時にエムデンの側に戻った。シドニーは、エムデンに戦闘旗が掲揚されているのを発見すると、砲撃を再開する。
エムデンは急いで戦闘旗を降ろし、白旗を掲げ降伏した。翌10日に艦長を初めとするエムデンの乗員は収容され捕虜となった。エムデンの乗員は武装を解かれたが、エムデンの勇猛さに敬意を表してミューラー艦長以下の士官たちは帯剣を認められたという。ディレクション島を襲撃したミュッケ大尉以下の陸戦隊は、砲撃戦の隙を突き、島にあった帆船で脱出。途中でドイツの商船に拾われてインド洋を横断し、イエメンに上陸した。ラクダや船を乗り継いで、アラブ遊牧民ゲリラと交戦したりしながらアラビア半島を北上し、ダマスカスを経由して同盟国であるオスマン帝国のコンスタンチノープルに辿り着いた。同所から鉄道でベルリンに向かい、1915年5月に42名が本国に帰還している。
随伴した補給艦マルコマニアもシドニーにより撃沈されている。
ミューラー艦長はマラリアの再発により1923年に死亡した。
エムデンの残骸は、しばらく放置されていたが1950年に解体された。
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           完全に破壊されたエムデン
                            参加艦艇
 大英帝国海軍 オーストラリア海軍
      大日本帝国海軍
  ドイツ帝国海軍 東洋艦隊
軽巡洋艦 シドニー
軽洋艦 エムデン 「1909〜1914」
軽洋艦 エムデン 「1914〜1914.11.9」