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進路シリーズ

空を仰いで その19   新たな戦前へと足を踏み出したこの国で、共に生きていくために

2003年度 最後の手紙 2004/03/01

みんなに『手紙』を渡すのも今日が最後になりました。ハレの門出の日にはおめでたい言葉や明るい励ましがふさわしいのかもしれません。しかし、ギシギシ音を立てながら方向転換しているこの国と学校の行く手に見えてくるものに大きな危険を感じつつ、その渦中で非力のままに立っている苦しさを感じている今、自立した社会人として歩み出そうとしているみんなに僕が贈るべきものは、一人一人が自分の生き方やあるべき社会について、そこに暮らした人々といっしょに考えられる材料だと思うのです。

■ 西本願寺で念仏を唱え合掌・礼拝したことから考える

卒業式直前の「本山参拝」の際、僕は西本願寺のブックセンターでブックレット基幹運動No.5『平和シリーズ1』とNo.10『平和シリーズ2 写真に見る戦争と私たちの教壇』の2冊を買いました。そこには、浄土真宗本願寺派が教団を守るため皇民化政策(天皇中心の軍国主義国家建設)に積極的に協力し、信仰の名のもとに多くの信者を戦争に駆り立てていった教団の罪を認め、それへの反省と同じ過ちを繰り返さないという決意を語った門主の言葉が記されていました。その一部を裏面に紹介します。

ところで京都女子学園には『心の学園記念日』があり、その記念碑がスロープの中ほどに立っています。そのルーツは大正天皇の妃であり当時の門主の妻(御裏方)の妹であった貞明皇后が、学園を訪れてそれを評した言葉によるとされています。しかし、そもそも皇后が京都を訪れた目的の一つは皇民化政策を進めるために仏教系やキリスト教系の私立学校に圧力をかけるためだったと考えられます。事実、同じ日に皇后が訪れた三つの女子校のうち、同志社女子の学園史には、その日がキリスト教精神に基づく建学の精神が踏みにじられた屈辱の日として記されています。

一人一人の信仰は誰からも侵されてはならないのと同時に、誰にも強制されるものではありません。個々の思想・信条・信教の自由を守ることは、個人の尊厳と世界の平和を守ることです。もし闘うべきものがあるとするならば、それは異教徒でも異端者でもなく、人の心を踏み躙ろうとする力でしょう。

■ 個人の尊厳とは何かを髪の毛一本から考える

卒業式予行の後に、髪を脱色・染色している(というより髪の毛が黒くない)人に対して「指導」が入り、髪を黒く染め直してこない場合は黒彩スプレーをかけるという「注意」がされました。その中には地毛が元々赤味がかっている人もおり、なぜ自分が自分本来の姿で卒業式に出られないのか、と悔しい思いをした人もいます。

もし生まれつきブロンドの生徒が目立つことを嫌って髪を黒く染めたら何も言われず、白髪の多いことを気に病んでいる生徒が茶色に染めたら怒られたとしたらどうでしょう。そこでは身だしなみが整っているかどうかではなく「みんながきちんと揃っていること」が評価の基準になっていることになります。そしてその底流には「日本人なら黒」という決め付けと「日本にいるのは日本人だけ」という思い込み=多様性の排除思想があるのかもしれません。それがそんな大げさなものではないとするならば、それは単なる事なかれ主義に過ぎないと批判されるかもしれないことを、みんなは丸山真男の文章から学んだはずです。

その染髪スプレーについて2004年2月19日、毎日新聞Web Newsに『金髪生徒を強制染髪 名古屋・県立商業高』という見出しの記事が載っていました。集団ごとの「常識」はどのようにして作られ、人を束縛するのか。社会の中で法的に保障されるべき人権とは何か。裏面に紹介した記事も参考に、呪縛を解き主体的に生きるために必要な何かを見つけてくれれば幸いです。

■ 卒業式の歌と京女トライアングルから過去と未来を考える

卒業式で歌われる定番の歌の一つは『仰げば尊し』です。「伝統」を重んじる京女では今年もこれが歌われましたが、この歌を卒業式で歌う学校は少数になっているようです。それはこの歌の2番の歌詞が立身出世に価値を置いており、また3番が『蛍の光』の歌詞と対をなしていることも原因のようです。『蛍の光』の3番では国に尽くすことが讃美され、4番では大和民族が抑圧支配したアイヌ民族と琉球王国の地を侵略戦争の要とすることが歌われています。そしてこれら二つの歌は日本全国の学校の式典で歌うことが強制されている『君が代』と、きっちりセットになっているとも考えられます。

ただ京女生は『君が代』ではなく『京都女子中学・高校校歌』を歌ってきました。しかし、その校歌の二番の一部「大和女の誉をば 千代に伝へん」という歌詞が彫られた『卒業記念碑』の傍らには『キミガヨラン』という名の植物が植えられており、それと向い合う形であの『心の学園』の記念碑がたっていることをみんなは知っているはずです。二つの石碑と植樹が作る不思議な京女トライアングル。

裏面に並べた四つの歌詞をじっくり読んでみてください。僕は京女トライアングルに隠されたメッセージが、朗々と語られる日がやってくること恐れています。と同時に3の1のみんなが文化祭のステージで歌った歌声に、新たな未来を切り拓く確かな希望を感じています。

■ 高く跳びたければ、まず深く潜れ  共に生きるために、まず孤独に耐えよ

「国」を守るために国民の命を犠牲にする国とは何か。もし「会社」を守るために製品の質や働く人の権利を犠牲にする会社、「学校」を守るために生徒が主体的に学ぶ権利と教師の良心を犠牲にする学校、「家」を守るために家族の生活を犠牲にする家があったとしたら……自分はその一員としてシトヤカに従うのか、シタタカに無視するのか、シナヤカに抵抗するのか。

従順さや素直さが尊重されるべき価値となるのは、それが権力にではなく自らが信ずるものに対するものであり、世間の常識にではなく自分の感性に対するものとなったときでしょう。学ぶことを厭う怠惰が生み出す無知は、知らぬまに人の尊厳を傷つけ命を奪います。我が身を守るために装う無関心は、時として悪を支える暴力となります。


深く問題を掘り下げることによってのみ高い意識が生み出されるように、支配や馴れ合いの鎖を断ち切ることでこそ自立した者同士として互いに手を携えて生きていけるのだと思います。京都女子中学・高等学校で得た知識と経験が、そこで感じた喜びや怒りや疑問が、一人一人が人として人と共に生きて行く力になってくれること願ってやみません。

今こそ 別れめ いざ さらば


※ これより裏面

ブックレット基幹運動No.10 『平和シリーズ2 写真に見る戦争と私たちの教壇』

「終戦50周年前戦没者総追悼法要 ご親教 1995年4月15日」より抜粋

私たちの教団は仏法の名において戦争を肯定し、あるいは讃美した歴史を持っております。たとえそれが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。(中略)そこでは非人間的行為が当然のこととなり、「いのち」はものとして扱われ、環境が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過ちを厳しく見据えたいと思います。


『金髪生徒を強制染髪 名古屋・県立商業高』  http://www.mainichi.co.jp/edu/edunews/0402/19-1.html

名古屋市内の愛知県立商業高校で、金色に染めた女子生徒の頭髪を、生徒指導担当の男性教諭(46)が、黒い染髪スプレーで強制的に染め直した。校長は「他の生徒の就職活動にマイナスになってはいけないと考えた。だが、体罰という誤解を招きかねない行動だった」と行き過ぎを認めた。卒業・就職シーズンを控え、イメージを優先した学校側の生徒指導のあり方が問われている。【中井正裕、山田泰生】

同高関係者によると、男性教諭は1月中旬、髪を染めている3年生の女子生徒3人に黒く染め直すよう指導。1〜2週間にわたって個別に指導室へ呼び出して髪色を確認した。染め直した生徒もいたが、教諭が「十分黒くなっていない」と判断した生徒には、染髪スプレーを手渡してその場で自分の髪に吹き付けるよう求めた。しかし、渋った生徒もいたため、着衣に塗料がかからないよう首にタオルを巻き、教諭が生徒の頭髪全体にスプレーをかけたという。

これに対して生徒側は「髪を染めた先生もいるのに、なぜ生徒ばかりが」と強く反発。教諭は「染髪は校則で禁止されており、スプレーをかけた際も生徒の了解を得た」と説明するが、生徒側は「密室で強制され、納得せざるを得なかった」と収まらない。

同高によると、卒業生の約7割が就職志望で、企業の人事担当者が学校を訪れる機会も多いことから、頭髪指導には力を入れている。特に1月からは、卒業式に向けて3年生の染髪指導を強化している。しかし、中には進学志望の生徒も含まれ、「なぜ、就職組のために犠牲に」との思いも強いという。

これに対して採用する企業側の反応は冷ややか。人事担当者は「学校側が気にするほど生徒の身だしなみが乱れているとは思わない」(鉄道関係)「採用する生徒の人格を重視する」(食品、流通関係)などと話す。

今回の騒動について愛知県教委は「事実なら、好ましい指導とはいえない。生徒や保護者に弁明の機会を与えるなどの手順を踏むことが必要だ」(高校教育課)と指摘。

また、教育問題に詳しい牧柾名・元東京大学教育学部教授は「生徒の意思に反して教員が手を加えれば体罰に相当する。教師が生徒との間で、徹底した議論を通じた生徒指導ができるかどうかに教師の真価が問われる」と話している。


   『仰げば尊し』 ※ 「日頃の恩を忘れるな」と言っているのは誰なのでしょうね。

1番  仰げば 尊し わが師の恩    教えの 庭にも はや いくとせ

思えば いと疾し この年月  今こそ 別れめ いざさらば

2番  互いに むつみし 日ごろの恩  別るる後にも やよ 忘るな

身を立て 名をあげ やよ励めよ  今こそ 別れめ いざさらば

3番  朝夕 なれにし まなびの窓  蛍のともし火 積む白雪

忘るる まぞなき ゆく年月  今こそ 別れめ いざさらば

『蛍の光』  ※ 隠された歌詞がある歌を歌い続ける意味は何なのでしょうか

1番  蛍の光 窓の雪 書(ふみ)よむ月日 重ねつつ

いつしか年も すぎの戸を あけてぞ今朝は 別れゆく

2番  とまるも行くも 限りとて かたみに思う ちよろずの

心のはしを ひとことに さきくとばかり 歌うなり

3番  筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 海山遠く へだつとも

その真心は へだてなく ひとえにつくせ 国のため

4番  千島の奥も 沖縄も 八島のうちの 守りなり

いたらん国に いさおしく つとめよわが背 つつがなく

『君が代』  ※ この歌が一種の『踏み絵』にされている学校と社会の現実をどう考えますか。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌と成りて 苔の むすまで

『京都女子中学・高校校歌』 ※ 口にした言葉が何を意味するのかを知る力を理性と呼び感性と呼ぶのです

2番  花のごとくも美はしく  月のごとくも清らけく

大和女(やまとをみな)の誉(ほまれ)をば  千代に伝へん  我等の思ひ

4番  慈悲のかひなに抱かれつつ  知恵の眼に護られつつ

あはれ久遠の命をば  とはにたたへんわれらの栄

夜の窓 死の扉優しさとは共に闘う勇気のことへもどうぞ

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進路シリーズ

空を仰いで その18   一つ天(そら)の下で

2003年度 19枚目 2003/12/20

初雪の朝。降りしきる雪をものともせず歓声を上げて雪合戦したり、植え込みの雪を掻き集めて雪だるまを作っている元気な姿は、見ているものの心も弾ませます。

さて、昨日の校内ダンス発表会でマミチャングループが入賞し、年明けの城陽でのステージに参加することになった知らせは、1組にとってステキな年の締めくくりとなりました。

そしてそれと同じぐらい値打ちがあったのは、卒業試験の最終日の終礼を42人そろって迎えることができたことです。

クラス全員と僕が教室で朝の挨拶を交わし、夕方別れの挨拶を交わすことなど、なんでもない当たり前のことのようです。しかし、1組のみんなは、そうした日常の一コマ一コマが実はとても微妙な偶然や多くの人々の支えで成り立っていて、本当はいつ壊れてもおかしくない危ういものであることに気付いている人々、中島義道が『不幸論』の中で言っていた『固有の不幸』を大切にできる人々なのかもしれません。

9月の新学期早々には体育祭があり、酷暑の中での応援席に42人全員が座り、互いの団結と絆を賛歌したのは奇跡的でした。

そして、その中には大切な家族を失った辛さをこらえながら精一杯練習に参加し、演技をしきった人がいたことを忘れることはできません。

10月の文化祭は残念ながら入賞できなかった3年生唯一のクラスとなりました。そしてその時その劇場にクラス全員がそろうことはできませんでした。

しかし、みんなは『競争ではなく共生に基く世界』、『暴力や命令や強制によって縛られた画一的な世界ではなく、愛と共感で繋がった豊かな多様性に満ちた平和な世界』を築いていくこうという願いを、美しいメロディに乗せて訴えることができ、たくさんの拍手をもらうことができました。

12月20日現在、42人中39人が京女大・短大への進学が決定(内定)し、1人は京都市立看護短大に合格しています。見かけの上では残る2人が進路未決定で不安な思いを抱きながら年を越すことになるわけですが、本当は42人一人ひとりが違った道へと足を踏み出し始めたのだと思います。

『進路』といえば進学や就職、あるいは結婚などの「行き先」を考えることだと思いがちですし、勉強したり働く場所が何処であるか、暮らす相手が誰であるかというのはとても重要なことです。

しかし、それ以上に大切なのは、そこで自分がどんな夢を抱き何を目指し、何にどう取り組んで、誰とどう関わっていくのかということでしょう。

そう考えれば、『進路』とは先を思うことではなく、今をどうするかと言うことになります。それは『若者』であるみんなと同様、僕にもみんなのお母さんやお父さんについても言えることでしょう。

思いもよらぬトラブルがなければ、僕は23日の朝から31日までアフガニスタンに行きます。目的は他の5人のメンバーと共に地雷で足を失った13人分の義足を届けることです。それについて僕とヨメさんとの共通の友人からは「病気で療養中の奥さんと、大学入試間近の息子がいるのに、なんでタリバンとアメリカ軍が撃ち合いしているところに今いかなあかんの?絶対反対!」と言われました。常識的に考えればその通りだと思います。

でも、ヨメさんや息子と同じように、僕自身も今、そしてこれからをどう生きていったらいいのか模索中なのです。もしこのまま教師をし続けるなら、どんな教師として何をどう教え続けるのか。このまま生き続けるならば、何とどう向き合って生きていくのか。

それを考えるためには、一度「日常」を離れた世界に身を置くことが必要だと思っているのです。

そして、すでにそれを決断したことによって、多くの人に迷惑をかけながらもいろんなことを学び始めています。その一つは「何かをしたいと思う一人の人を手助けしてくれる幾人もの人がいて、初めてそれは実現できる」という『あたりまえのこと』です。

頭で考え口で言うのは簡単でも、それを実際にすることはとても難しいことです。


2004年1月8日の始業式は『朝礼&HR 10:30〜』にします。みんなと元気で会えることを願っています。みんなにとっても、意義深い冬休みでありますように。

つづく
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空を仰いで  その17   ポケットから手を出すことから

2003年度 18枚目 2003/12/10

今日の現代文の授業で語られた3人の「主張」はとてもリアリティがあり、心打たれるものでした。でも、ここで僕らが本当に気付かなければならないのは、「語られていない主張」が3年1組の中だけでもあと39あるということです。

明日12月10日は『人権デー』です。1948年12月10日に国連で『世界人権宣言』が採択されたことを記念して国連で設けられたものですが、日本では12月4〜10日は人権週間として様々な行事や取り組みが行なわれています。京女ではそんな気配もありませんが、公立の小・中学校でこの期間に映画を見たり講演を聞いたりした経験のある人は多いのではないでしょうか。

その『世界人権宣言』の第1〜3条は次の通りです。

第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

2  さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

そしてこの宣言と対をなす、我が『日本国憲法』の前文は次のように始まり、その後半は国際平和についてうたわれています。

われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

(中略)

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

『日本国憲法』の第1章は天皇に関する定めで、第2章は第9条から始まります。

第9条 戦争放棄、軍備及び交戦権の否認
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

いま、この憲法を改正する準備が進められています。そして、いよいよ自衛隊が装甲車や無反動砲を携えてイラクに出発させる決断を小泉首相はするようです。

だからこそ、いまここでみんなが文化祭で『もしも世界が42人の村だったら』と歌ったことを思い起こしてみませんか。みんなは貧困や飢餓、戦乱や暴力の中で失われていく命や人としての尊厳を守るために何かをする気があれば、ポケットから一握りの小銭を取り出して募金箱に入れることもできますし、出した手で誰かの訴えに署名をすることもできます。そして、倒れた人に手を握って立ち上がる手助けをすることもできますし、スクラムを組んで何かに立ち向かうこともできます。

だからまず、寒さをこらえてポケットから手を出すことから始めませんか。


僕は強い者が振りかざす「大義」が大嫌いです。大義の陰にいる人々と手を繋ぎ、自分にもできることを見つけていきたいと思って生きてきました。そんな折、この前紹介した映画「アイ・ラヴ・ピース」にも描かれていたアフガニスタンで地雷により足を失った人々に義足を届けるボランティア団体「アフガニスタン義肢装具支援の会」を知り、それに加わることにしました。

ビザや航空券の手配がうまくいけば再来週の火曜日からアフガニスタンに行きます。


下に紹介したのは今日(12月9日)の朝日新聞のコラムです。また、裏面には以前にも紹介した「宝塚アフガニスタン友好協会」の取り組みも紹介しますので、興味があれば見てください。

12月09日付 朝日新聞  天声人語
いまの子どもたちはビー玉遊びをすることがあるのだろうか。狭いところでもできる手軽な遊びだ。小さなガラスの玉でいろいろな楽しみ方があった。▼アフガニスタンの村で6日、米軍の攻撃によって9人の子どもが死んだ。彼らの多くは、ビー玉遊びをしていたらしい。穴を掘ってゴルフのように入れていく遊びだったのか。円を描いてカーリングのようにはじき出す遊びだったのか。▼ニューヨーク・タイムズ紙によると、家の前で遊んでいたのは8歳から12歳の男の子7人だった。遊びに夢中で何が起こったのか知る由もなかったのだろう。9歳と10歳の女の子2人は、家のそばを流れる小川に水をくみに行くところだったという。▼米軍は、この攻撃で潜伏中のテロリストを殺害したと発表した。しかし死亡した男について村人らは別人であると語っている。イランで3年間、井戸を掘る仕事をして10日前に帰ってきたばかりだという。5日後に、婚約の祝い事をひかえていたともいう。▼「子どもたちがいるとは思いもしなかった」というのが米軍側の説明だが、民家を攻撃しながら通用する釈明ではあるまい。アフガンでは去年7月、結婚式会場が攻撃されて48人が死亡したのをはじめ、米軍の誤爆などで民間人がたびたび犠牲になっている。「思いもしなかった間違い」が積み重なっている。▼死んだ子どもたちの親は、散乱する小さな靴や帽子を指さして「この子たちがテロリストだって!」と怒り、嘆いたそうだ。「大義」の陰で、人々の怒りや悲しみも降り積もっていく。
つづく
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空を仰いで  その14  一人の人として生きていく

2003年度   15枚目   2003/07/19

次に名前を挙げた3年1組の12人は、他の30人と違う存在です。

     江口、九鬼、小柳、坂本、田中ュ、中谷、
     林、馬場、東口、深尾、湯浅、吉田


この人達はもう子ども扱いされなくなった人たち
すでに右の法律や条約や条例によって守られていない未成年です。

彼女たちは、政治に直接参加できる選挙権もなく、飲酒や喫煙による害を自己責任として引き受けることもできませんが、もう子どもではいられなくなった宙ぶらりんの存在です。

そして夏休み中には石井、宇野、北島、竹村、津田、埜村、藤原、前田の8人もそれに加わり、卒業式後の3月10日には吉田ゅが、その最後の一人となります。

昨日までは、自分の中の気に入らないことや上手くいかないことを「親のせい」にしていても子どもだから仕方がないと思ってもらえ、何か大きな失敗をしても「親の責任」が問われてきました。

明日からは、何があっても「自分のせい」だし「自分で責任をとる」ことが求められるのです。

でも、

人は一人の人として   産まれて来たし死んで行く

人は一人で生きてけないから    時には黙って甘えさせてよ

人は一人で生きてないから   時には黙って甘えてよ

人を一人の人として    認める自分を認めてほしい

さて、

少子化が問題にされる中で、森喜朗前首相は「子どもを沢山作った女性が、将来国がご苦労様でしたといって、面倒を見るのが本来の福祉です。ところが、子どもを一人も作らない女性が、好き勝手、と言っちゃなんだけど、自由を謳歌して、楽しんで、年とって……税金で面倒見なさいというのは、本当におかしいですよ」と語った。
子作りはお国のためか?子どもがほしくても産めない女の苦しみに思い及ばぬのか?

早稲田大学のサークルによる集団レイプ事件に対して、太田元総務庁長官は「(集団レイプする人は)まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と言い、その後「異性を求めるのならば、結婚相手を探すべきだ、と言いたかった」と弁明した。
結婚は男による女の支配か?無理強いされる女の屈辱感に思い及ばぬのか?

長崎の中学1年生による幼児殺害事件に対し、政府の青少年育成推進本部副本部長でもある鴻池祥肇防災担当大臣は「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ」「親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と言った。
死刑で殺人はなくせたか?子どもの心の深い闇と、闇に戸惑う親の絶望に思い及ばぬのか?


◇みんなが高校1年生だった2001年9月、神戸市北区で監禁された車から飛び降りた中1の少女が、転落後別の車に轢かれて死にました。監禁したのはテレクラで知り合った中学校の教師でした。

◇みんなが小学校6年生だった1997年5月、神戸市須磨区で酒鬼薔薇聖斗と名のる中3の少年が、小学生を殺して校門に切った首を供えました。この事件をきっかけに少年法が「改正」されました。

◇みんなが小学校に上がる前年の1990年7月、神戸市西区の県立高1の少女が、学校の「生活指導」によって命を失いました。

その後、神戸の学校はどうなったのか。2003年7月7日付毎日新聞兵庫版には「神戸高塚高校門圧死事件 13年目の門前追悼」という記事が載っていました。その一部を下に紹介します。

神戸市西区の県立神戸高塚高校で1990年7月、女子生徒の石田僚子さん(当時1年生、15歳)が遅刻指導の教師が閉めた門扉に挟まれ死亡した事件から13年目の6日、同校校門で市民らによる門前追悼が行われた。参加者は改めて事件を振り返り、「事件を風化させまい」との思いを新たにしていた。

市民でつくる「石田僚子さん追悼記念のつどい実行委員会」が主催。(中略)実行委の森池豊武さん(56)は「事件から13年たつが、教育は悪い方に向かっている。もう一度みんなが命とは何かを考えるとき。この事件を風化させてはいけない」と話した。

神戸高塚高校では今月4日、教職員が朝の職員会議で石田さんの冥福を祈って黙とうをささげた。しかし、毎年、命日(7月6日)に開いていた生徒集会は10年を過ぎて取りやめた。守澤秀受校長は「(事件の)話をしても、生徒は自らのこととしてピンとこない世代になった」と話す。

事件を招くことになった毎朝の校門指導は3年前に再開。あいさつ、服装のチェック、遅刻しそうな生徒に急ぐよう促すなど基本的な生活習慣の指導が目的という。県教委高校教育課によると、県内の公立高校164校中、校門指導を行う学校は148校(2002年度)と今も大半を占める。

事件後、指導時に校門が閉められることはなくなったが、守澤校長は「13年がたとうと(事件は)教員が起こしたもの以外の何ものでもない」と語る。「管理教育の生んだ悲劇」と言われた事件の影は13年を過ぎた今も消えない。

望もうと望むまいと、子どもから大人になっていかなければならないこの夏。

自分はどんな大人にはなりたくないのか、どんな大人になって何を守り、何を育てていきたいのか?

そのためにどんな力をどうやって身に付けていくのか?一人の人としてどう生きていくのか?

それをそろそろ本気で考えてみる。そこから見えてくる「進路」こそが、ホンマモンなのかもしれません。

9月1日午前11時30分から始まる2学期の始業式では、一皮向けたみんなと出会いたいです。よい夏休みを!

つづく
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空を仰いで  その13   しつこく、しぶとく、しくじらず

2003年度 14枚目 2003/07/14

毎度のことですが、「世の中にはいろんな常識があります」。そして、「家々によって暮らしの条件がそれぞれ違います」。

そして、学校生活を続けたり、進学するためにやらなければならないことは人によって様々です。

下に紹介したような取り組みもありますが、うちの学校の規則は次の通りです。

「アルバイトは許可制とする。注意事項の1-2 勤務の時間は学校の居残り時間を限度とする」

しつこく・しぶとく・しくじらず、生き抜くための手立てをしっかり取ってください。

よみうり教育メール  発行日:2003.07.14(vol.692)  発行者:読売新聞社
                             
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/08/20030714wm0f.htm

◆鳥取県教委が高校生にアルバイト紹介  (鳥取)  2003/7/14

県教委は夏休みから、高校生にアルバイトのあっせんを始めることを決め、賛同企業18社を各校に紹介した。これまでは「学業の妨げになり、生活も乱れる」とアルバイトを禁止する高校が多かったが、高卒者の離職者が多い現状に、早く自分に合う仕事を見つけてもらったほうがいいと判断。インターンシップ(就業体験)としての意味合いを持たせ、方針を大幅に転換した。


県教委は、県産業教育振興会(会長、安藤賢・鳥取銀行頭取)の会員企業343社に協力を要請。うち銀行やスーパー、製造業、土木建築業など18社から接客やデータ入力、加工などのアルバイトの申し入れがあった。

生徒のアルバイトは夏休みと冬休みの期間中に計20日前後を予定。仕事の厳しさが体験できるよう正社員と同様に週5、6日出勤し、1日7、8時間前後働いてもらう。

6月上旬に県立・私立計34校に企業の連絡先や待遇などを紹介する一覧表を配布。生徒は学校を通して企業に申し込み、終了後は、▽プラス・マイナス面▽労働について考えたこと▽今後の生活に生かしたいこと▽アルバイト代の使途――について報告書を学校に提出する。全体で、夏休みに50人、冬休みに40人を受け入れる予定。

昨夏、9社で長期アルバイトを試行したところ、14人の生徒から「両親が大変な思いをしてお金を稼いでいることが分かった」「遅刻してはいけないことを肌で感じた」などの意見が寄せられた。一方、企業からは「しつけが出来ていなかったため担当者が苦労した」との厳しい指摘もあったという。

今回、県教委が、アルバイトを勧める背景には、高卒で就職した生徒が、入社後数年でやめてしまうケースが増え、企業側が高卒の求人に二の足を踏む実情がある。鳥取労働局のまとめでは、1999年に就職した県内の高校卒業者の約半数が昨年までに退職したという。

県教委は職業観の欠如などが退職の原因と分析しており、「社会の厳しさを実体験することで、職業意識も芽生え、離職の歯止めになるのでは」と期待している。


つづく
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空を仰いで  その12  知るべきは自分のおろかさ

2003年度 13枚目 2003/07/05

右にあげた、『法語板』の7月の言葉に気付きましたか?

1学期の授業が終り、明後日から学期末試験を控えている時であるならば、「余計なこと」など考えず、時間を惜しんで覚え直しや問題演習に励むべきかもしれません。

しかし、そんな追いつめられた時だからこそ、自分は何のために何を学ぶべきなのかを真剣に考えてみることができるのかもしれません。
     愚かさの

          自覚は

     
深い知性と

     
謙虚さから

     
    生まれる

自らの愚かさを知った人間は他人を軽蔑したり見下したりして傷つける事が少なくなり、救いを求めている人に手を差し伸べる優しさを手に入れることができるかもしれません。

そして、愚かなもの同士が支え合って生きるために、自分も様々な知識を学び技術を身に付けたいと願うのではないでしょうか。

「賢くなりたい」と願い「子どもに賢くなってほしい」と願うならば、「賢い人とは己の愚かさを知る人」であり「知性とは愚かさに気付く力である」ことだと思い直すことが大切なのかもしれません。

試験勉強や家事や仕事の合間に何か適当な1冊をという方のため、今日は暉峻淑子(てるおかいつこ)さんの『豊かさの条件』(岩波新書 2003年5月刊行 \740)をお薦めします。以下はその一部抜粋です。

※ 紹介したのは「第三章 なぜ助け合うのか」で、不登校生徒にまつわって語られた、「わがまま」を否定し「協調性」を求める競争社会への批判に関する部分です。

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進路シリーズ

空を仰いで  その10   恐れるべきは無自覚の無知

2003年度 11枚目 2003/07/02


昨日の模擬試験の結果からこれまでの自分の何に気付き、これからの自分の何をどうしていこうと思ったのでしょうか。4月の実力テと今回の模試、そして五日後から始まる期末考査の結果(一学期の成績)を重ね合わせた客観的なデータを自分なりの「進路選択」の材料にしていくことが大切です。

が、それ以上に大切なのは日々の暮らしの中でいまの自分がどんな自分であり、何をしている自分なのを自覚していくことです。結果の良否ではなく無自覚=無知をこそ恐れるべきです。その瞬間瞬間に交差する人と人ととの関係の中で生き方を問われるのは大人も子どもも一緒。

明日のアルバム個人写真再撮影(1組は9人)にちなんで「子どもの日」に配信された教育メールを転載して紹介します。

よみうり教育メール 発行日:2003.05.05(vol.642)  発行者:読売新聞社 
=相談コーナー=

「再登校」指導について

【相談】  中学校教諭、男性

担任している中3男子は昨年、服装違反などを繰り返し、直してから「再登校」するよう何度も指導されました。新年度に入ってから、服装を正してきましたが、「髪の色がおかしい」と再登校を命じられました。しかし、前の担任も髪の色はおかしくないと言っており、私には生徒指導部が色眼鏡で見ているようでなりません。以前の写真と比較するなど客観的証拠で本人に納得させないと、授業を受ける権利を奪っていることになると思います。

【回答】  大阪学院大流通科学部助教授 加茂英司

再登校の必要性を相談者が感じていないなら、生徒指導部に自信を持って主張してください。担任の先生が誰より生徒のことを一番理解しているし、前の担任も同意しています。何よりも相談者の「客観的証拠を」という一貫した論旨に説得力があるので、ちゅうちょせずに主張してください。そのうえで生徒に授業を受けさせればいいと思います。

相談者がこの簡単な解決方法を採れない理由は、二つあると思います。

一つは、問題の生徒が本当に心を入れ替えたかどうか、相談者の心の奥に判断の迷いがあるからです。担任になったばかりで過去の経緯をよく知らないし、生徒の心が分からないことに相談者自身が不安になっているのです。

もう一つの点ですが、相談者が主張しにくい雰囲気が学校の中にあるのだろうと文面から感じました。生徒指導部と対立すると、学校内での相談者の立場が悪くなるという「組織の問題」でしょうか。それとも頻繁に顔を合わせる同僚と対立したくないという「個人の問題」でしょうか。

いずれにせよ、葛藤(かっとう)にかかわりたくないという姿勢が見え隠れします。この相談は、一見すると生徒の処分の問題に見えますが、実は相談者自身の仕事や生き方に対する問題なのです。

この生徒は、相談者自身にそんな大事なことを気付かせてくれているのです。生徒に授業を受けさせるためというよりも、相談者が一人前の教員になっていくために、勇気を持って生徒指導部に主張してください。生徒指導部も当面はこの生徒に多少の問題を感じても、熱心な担任が付いているのなら後の指導は任せてくれるでしょう。


回答者 かも・えいじ。松下電器産業国際部門、神戸大非常勤講師などを経て、現職。社会人として大学院で学んだ経験を生かし、社会人の進学相談や留学相談も。マーケティングの研究に携わりながら教育、ボランティアなどについて執筆、講演活動に取り組む。主な著書に「社会人大学院入学・活用ガイド」(日本実業出版社)。メールアドレスはeijidream@m5.dion.ne.jp。


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進路シリーズ

空を仰いで   その9    私の神話をつむぐ時

2003年度 10枚目 2003/06/23

今日が何の日か覚えていますか?去年の今頃、みんなは何をしていたか覚えていますか?

今日は『沖縄慰霊の日』であり、去年の今頃、みんなは事前研究のための新聞切抜きや読書にいそしんでいたはずです。

沖縄を訪れてから半年経った今、わたしの中に何が残り、何が育っているのか降り返ってみてはどうでしょう?

それともみんなは、そんな『過去』にいつまでも引きずられている暇はなく、次の目標である入試や、次の課題の体育祭や文化祭にむかって歩き続けるだけで精一杯?

「目標に、より早くより確実に到達するためには、余計なことは考えず、わき目も振らずにひたすら前に突き進むことが大切です」という教えが、この世界に何をもたらし、人々を何処に導くものであるのか。

       立ち止まることも引き返すことも許されず、

       オイッチニオイッチニの掛け声に操られて行進する人々の群れは、

       突撃!の叫びと高らかに鳴り響く進軍ラッパに背中を押され走り出す。

       「敵」とは誰のことかも、命を賭けて守っているものが何なのかも知らぬまま、

       「敵」と名付けられた相手を倒すことが正しいことだと教えられた通りに

       引き金をひく兵士達。

       教えられた「敵」が誰であり、本当の敵は誰であったのかを知るのは、

       自分が撃ち殺した友の上に折り重なった自分の死体を眺めた時。

       成す術もなく死体を見下ろす自分の後ろを絶え間なく続くザックザックの行進に

       振りかえって止まれ!止めろ!と叫ぶ声はオイッチニオイッチニにかき消され、

       両手を広げて立ち塞がる自分の体をすり抜けて

       ザックザックは進み続ける。

そんな今日の朝日新聞朝刊に載っていた記事が、次の切抜きです。
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進路シリーズ

空を仰いで   その8   教師の特異性とその課題

2003年度 9枚目 2003/06/17

3年1組は「初等教育専攻」や「児童学科」を希望している人がたくさんいます。そうした志望を持つならば、大学に進学するための勉強を、焦らず怠けず地道に積み重ねるのと同時に、日々の学校の出来事を通して『教育者』にとって必要なことは何かを考え、あるいは議論していくことがあってもいいかもしれません。

親も教師も時々口にする言葉に「たとえ私が許しても、世間が許しません」というのがあります。みんなはこれまで現代文の授業でずいぶん『世間』について勉強してきたはずなので、そう言われたからといって、簡単に何かを断念したり我慢したりすることはないと思います。

ただ、『世間』を盾にものを言う人々の非論理性や保守性を突きつけられた時、ガッカリしたりウンザリしたり、あるいは自信を失ったりすることはあるでしょう。
そんな時こそ『常識』を疑い『本質』を探るチャンスです。

みんなと教師は似たところがあって、それは『学校という世間』しか知らない人が多いということです。家庭や地域や交友関係は個々に違ってはいても、みんなは物心ついた頃には幼稚園や保育所にいて、それから今日までずっと学校というところで一日の大半を過ごしています。小さな頃はお母さんやお父さんのいう事は絶対正しいと信じていたように、学校で教えられることは間違いのないことのはずだと思い込んで生きている人も結構たくさんいます。

そして教師というのは大学を卒業した後も「学校の常識」以外の常識に直接触れることがないまま「学校」で生活し続けるため、よほどの自覚を持たないと、場合によっては社会に通用しないような「学校の常識」を疑問も持たずに再生産し続けてしまいかねない、社会の中の特異な存在です。

だからこそ教師は様々な情報に触れ、様々な人間関係をむすび、生徒達や親御さん達が教えてくださる様々な価値観に謙虚に耳を傾け、社会の大きさに比べてあまりに小さい自分の体験や知識のを補う想像力を鍛え続けなければなりません。それを怠った時、学校は傲慢な存在として社会から見捨てられていきます。

教師や保育士になるつもりなどサラサラないという人も、学校と社会のズレについて理解しておいても損はないでしょう。そうしたことの材料に次の毎日教育メールを使ってみてください。

■2003-06-16■No.507  Mainichi Daily Mail Education 毎日教育メール

【就職】学校と企業間で「いい生徒像」認識にズレ 福島………………………………((((((News

今月20日の高卒就職希望者に対する求人受付開始を前に、福島公共職業安定所の増田慎一・上席職業指導官が行った企業アンケートで、企業側は面接による人物重視の姿勢であることがわかった。

高校生の就職現場は従来、学校の指導が成績や欠席数といった学校での活動評価に力点を置く傾向があるため、増田さんは「学校と企業の間でいい生徒像にズレがあることが裏付けられた。高校生はこわがらずに自分をぶつけることが大切」とアドバイスしている。

アンケート調査は5月下旬、これまで高校生の求人を出したことがある福島市・伊達郡を中心とした約2000社を対象に、採用のポイントを聞いた。その結果、企業が採用にあたって重視するのは、面接が35・8%と最多で、次いで欠席数15・8%▽成績11・6%▽部活動11・4%の順だった。

また、面接のポイントでは仕事への意欲が28・2%と最多で、次いで元気19・8%▽誠実18・2%▽素直17・9%と続いており、人物像重視の傾向がうかがえた(いずれも3つまで複数回答可)。

増田さんは長年学卒者の就職指導に当たる中で、成績や内申書など学校での活動を重視しがちな学校側と、面接での印象など人物像を重視する企業側のギャップを感じていたが、今回の調査でそれが裏付けられた。増田さんは「就職担当の先生以外は企業のニーズを直に感じる機会も少なく、就職指導が企業の求める実態に即していない」と分析している。アンケート結果を各高校に配布し、役立ててもらう考えだ。
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進路シリーズ

空を仰いで その7   しとやか・したたか・しなやか・ししし

2003年度 8枚目 2003/06/16

今日は朝から「いかにも梅雨」といった趣きの雨が降っています。登校直後や体育の後は暑いのでクーラーを強めに効かせている教室もあるようですが、噴き出した汗が引いた後、一気に体が冷えてお腹を壊したり風邪をひいたりする人が続出しそうで心配です。

さて、先日あるテレビの天気予報で、初老のお天気キャスター氏が、「豪快にザーッと降る梅雨の雨を『男雨』、シトシトと湿っぽく降る雨を『女雨』と呼びます」と紹介していました。そして、こうした番組のセオリー通り、「最近では女性の方が強くなってきたので、こうした呼び方もすたれていくでしょうね」と言う落ちで話しが次へと進んでいきました。

1950年代に「戦後強くなったのは女性とストッキング」という言葉がはやったそうです。日本国憲法が制定され男女同権が基本となり、女性にも選挙権が認められ、ウーマン・リブの運動もあちこちで広がりつつありました。それから約半世紀。女性は本当に男性より強くなったのでしょうか。それ以前に、「人として対等の扱い」がされるようになっているでしょうか?

「学校」という場、それも女子高という閉鎖的な社会の中にいるとそうした人権侵害や潜在的な差別に気付かないことも多いかもしれませんが、一歩社会に出ると、いや、その出口=社会の入口に立った瞬間、根強い就職差別やセクハラといった大きな壁に行く手をはばんでいることに気付く人もたくさんいます。その時みんなはどうするのか?その時のために、いま何をどう身につけるのかが問われています。


授業で河合隼雄の「死のおはなし」をやりましたが、ここでいろんな「し」の生き方を考えましょう。

一つ目は「しとやか」。清純・純情・純潔・従順・貞淑etc.世の中の流れに逆らうことなく、与えられた役割や許された条件の中で自分なりの生き方を探る、「近代人」には難しい生き方。

二つ目は「したたか」。表でまともにやり合っても勝てないならば、裏の手を見つけて何とかする。怒鳴る相手には頭を下げて、背を向けたとたんにそっと舌を出してやり過ごす。ヤナ奴って思われたって気にせず自分の利益を守る、「根性」が試される生き方。

三つ目は「しなやか」。強いけどもろくない。優雅だけれど媚びたりしない。潤ってるけど湿っぽくない。鍛えられた知性と感性で問題と向き合い、自分を見失わずに柔軟に対応する。理想的かもしれないけれど、最も「努力」が要求される生き方。

身近な家族や親戚、あるいは先輩などの生き方から学べることはたくさんあるはずです。また、自分の「情報の窓」を広げると、そこには未知の生き方があふれていることに気付きます。そうした多様な女性の生き方は、毎日配達されている新聞記事の中からも知ることができます。それをこれからぼちぼち紹介していきます。

その第1回目は「くらいついた女」です。

2003年6月1日付朝日新聞朝刊2面 ひと 欄
  • ネットから映画脚本家にデビューする 渡辺あやさん (38)  娘は母を女優だと思っている。「美しい誤解はそのままにね」

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進路シリーズ

空を仰いで   その6   進路の針路を決めていくとき

2003年度 7枚目 2003/06/14

来週の月曜日は保護者会で5・6時間目は授業カット。1組では全体会に30数名、クラス懇談会に20数名が出席してくださる予定です。いずれもみんなの進路に関することが中心になると思いますが、クラス懇談会では来て下さったお母様やお父様に、僕の進路を相談したいところです。

さて、昨日のアルバム個人撮影会では五人の欠席者と保健室に行っていた人以外に、四人が「判定」で撮影不可になり、9人が未撮影。クラス全員で手に持ったカードが一つの文章としてアルバムに浮かび上がる企画は完成するのか、それとも挫折するのか?!

隣同士並んでみたらあの人のほうが茶色に近いのに、何であの人は○で私は×なの?美容師さんと相談して、前に染めた髪を最大限黒く染め直してきたのにこれ以上どうしろって言うの?生徒部の○○先生に事前に見てもらったら大丈夫って言ってくれたのになんで!髪の毛見てじゃなくって名前でだめな子決めてるんと違うの?etc.

アウトの判定が納得できなくて憤慨している人もいましたが、そもそも「もともと」の髪の色がどんな色だったのかをどこかに記録してあるわけでもなく、機械で測ったり、色見本と照らし合わせるような科学的かつ客観的な判定方法で判定しているわけではありません。「パッと見てあかんからアカン」という事なのです。


ここまできて、だんだん「みんなの問題」がはっきりしてきました。昨日、写真に写った人の中にもいろんな思いがあったはずです。自分らしく自然な笑顔を表現できた人もいれば、前日に髪を黒く染めたことに屈辱を感じながら複雑な笑顔で写った人もいるでしょう。

みんなが分担して持ったカードの片隅には、一人ひとりのオリジナルメッセージが書かれていましたが、ある一人のカードには「素直な1組さんが好き」というような言葉が書かれていました。素直さや正直さはとても価値ある性質だと思います。問題は「何に対して誠実であるべきなのか」ということです。


クラス全員が一枚ずつ持った文字をつなげて、みんなはどんなメッセージを作ろうとしたのか?

文化祭のクラス発表の種目や企画を考えてもらうときに、クラスのリーダーさんが作ったメモには「一人はみんなのために みんなは一人のために」と書いてありました。昨日のHRで、体育祭の新しい応援歌の歌詞が紹介され、そこには「道は違えど心は一つ」とありました。みんなが言う「みんなで」とか「協力」とか「団結」って言う言葉の意味は何?それはどっちを向いてどう行動すること?

難しいのはマジョリティ(みんな)がマイノリティ(ひとり)のためにどう力を尽くせるのかということ。

「多数の力」を何を守る戦いのために使い、どんな社会を作るのか。抑圧か解放か。みんなにとっての正義や真理は何か?「真の京女生」とは何か?この際、それを徹底的に問い直してみませんか?そうしなければ、どんな言葉もただのセンチメンタルな装飾品になってしまいます。

生徒手帳にも書いてあるとおり、京女の教育目標のその3は「基本的生活習慣を身につけ、個人の尊厳を重視するとともに、生徒会活動をはじめとする自主活動には積極的に参加し、自治能力を高め、さらに社会の矛盾を見のがさない生徒を育成する。」です。僕の針路≠ヘこれまでも、これからも、これに従ってみんなと付き合っていくことです。


〈おまけ〉  前号では読売新聞社の教育メールを紹介しましたが、今回は毎日新聞社の毎日教育メールに載っていた新刊紹介を転載します。「学校が『愛国心』を教えるとき」は職員室に置いてあるので興味があればどうぞ。「丸刈り校則ぶっ飛ばせ」はただいま注文中。

2003-06-13■No.506  Mainichi Daily Mail Education

■ 「丸刈り校則をぶっとばせ 熊本・丸刈り戦争」  宮脇明美  花伝社  1200円

熊本県内に根強く残る中学校の「丸刈り校則」に反対し続けた体験をつづった「丸刈り校則をぶっとばせ 熊本・丸刈り戦争」を熊本市の主婦、宮脇明美さん(43)が出版した。「子供の人権を守る命がけの戦い」と訴えて、丸刈り反対を公約に村議選に出馬した悪戦苦闘ぶりや、学校と地域の固執を手厳しく描いている。宮脇さんは「あらゆる校則問題を考える参考にして」と話している。

宮脇さんは子供を対象に、西原村でパソコン教室を開催。子供たちの「丸刈りは嫌だ」との悲鳴を聞き、「子供への人権侵害」と、1998年から反対運動を始めた。地元へのアンケートや学校、村教委への要望を重ねたが、「文化と伝統を守る」などの理由ではねつけられる。「孤立するからやめろ」と止められたが、「丸刈り廃止」を訴え2000年の村議選に立候補、大差で落選した。

2002年には丸刈り拒否の男子生徒が、卒業式や卓球大会への参加を辞退させられる問題が発覚。県教委へ見直し要請を進めた結果、県議会や県教委も論議を始め、県内の丸刈り校則は1年で104校から約40校に減った。

この本はこうした活動を通した“過酷”な体験記。学校や教育委員会のかたくなな対応や地域のこだわりに触れ、「常識が通用しない丸刈り校則には、けんかで立ち向かうしかない」などとまとめている。

宮脇さんは「丸刈りが今も残るのは、熊本、鹿児島など数えるだけ。地域は大まじめで押し付けるが、これほどひどい校則はない。日本全体の問題として考えてほしい」と話す。


「学校が『愛国心』を教えるとき」  西原博史著  日本評論社 1800円

もし、日本の学校が組織的に「マインドコントロール」の現場になったらどうするか。これがこの本の大きなテーマだ。“愛国心”を養うために教育基本法が改正されようとしている。認められれば「思想・良心の自由」が脅かされる恐れもあるのだ。

戦前・戦中の教育を見直すためにつくられた基本法について、もっと話し合わなければいけない。



おまけのおまけ

2003年6月13日の「No.506  Mainichi Daily Mail Education毎日教育メール」には、京女の高校3年生を紹介する次の記事も載っていました。

 【高校】京都女子高校の生徒が伝統産業の麩作り学ぶ………………………………((((((News

京都の伝統産業「麩(ふ)作り」の学習を通して地元の文化を学ぼうと、京都女子高校(京都市東山区)の生徒28人がこのほど、同区の麩製造業「半兵衛麩」を訪れ、麩と京都のつながりなどを学んだ。

同校は3年前、国語科の本格的な選択講座として「京都学」を開設。古文書を読んだり京都の歴史研究をする一方で、浴衣の着付けやうちわ作りなどの体験学習にも力を入れている。

「半兵衛麩」は1689年創業の老舗。この日は専務の玉置万美さんが麩の歴史や作り方を説明しながら「麩は水が命。良い麩を作り続け、その食文化を伝えながら、京都の水を守っていくことにつなげたい」と麩作りへの信念を披露。生徒たちは生麩でできたまんじゅうの味を楽しみながら、熱心にメモを取ったり、質問をしていた。


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進路シリーズ

空を仰いで   その5   二つのらしさの狭間で

2003年度 6枚目 2003/06/12

 「進路」と言うとすぐに受験や進学の話になりますが、ホントは自分がどんな「生き方」をしていくのかっていうこと抜きに話せないことでしょう。そして、それは「これからどうしよう」って漠然と頭の中で想像することではなく、「いま自分が何を決断しどう行動するか」という差し迫った問題なのかもしれません。

今回は、明日の卒業アルバム個人写真撮影会にちなんで、「二つのらしさ」からそれを問い直してみましょう。

卒業アルバムは大切な思い出の品。自分が京女で過ごした青春の証(あかし)。これからの人生の折々で、そのころ自分が何をどう感じ、どう考え、どう生きていたのかを思い起こすための大切な品です。しかしアルバムに残すことができるのは「京女生らしさ」の基準に当てはまった姿だけです。

京女らしさと自分らしさが一致している人はそこに何の苦痛も感じません。涼しげな笑顔で自然に写真に写ることができるでしょう。しかし、それが一致していない人はどうでしょう。みんなと並んでアルバムに収まるために本当の自分を殺し、京女らしさで演出=化粧された仮の姿で映らなければなりません。

 「京女らしさ」から外れて暮らしている人は、自分の趣味や人との違いをアピールしたい人ばかりではないはず。家や学校や友達との対人関係で悩み苦しんでいる「自分」を守り隠すための「よろい」を着ている人もいれば、自分探しの迷路をさ迷う「旅姿」をしている人もいるはず。学校という場が一人ひとりの成長や進路を保障していく場であるならば、「らしさの制服」を身にまとって明るく素直に成長している人と同じぐらい、「らしさの私服」に身に包み悪戦苦闘している人も大切にしなければならないでしょう。

 「○○らしくはふるまえない」と訴えた時、「気に入らないなら出ていけ」と妻に怒鳴る夫や娘に怒鳴る父、在日外国人に石を投げつける日本人の言動を横暴で非常識だとするならば、らしさ=基準に合わせようと何かを不当に制限したり、合わないからといって排除するのはおかしなことでしょう。

さて、ここで問題となるのは学校教育の場で、茶髪や化粧や装飾品に対する制限が不当な制限であるのかということです。これについては様々な見解があります。

2002年11月23日の朝日新聞が報じているように、人権問題を積極的に扱っている京都弁護士会は、校門で頭髪検査をして茶髪の生徒を帰宅させ、オートバイの免許取得を制限している京都府亀岡市の府立南丹高校に対して、「髪の色を選択する自由は幸福追求権の中の人格的自立権、自己決定権の範畴に属する」と判断し、茶髪の生徒を帰宅させるのは「授業を受ける時間を制約するもので疑問」と結論づけ、校則によるオートバイの免許取得の規制も廃止されるべきだと学校に改善を求める要望書を出しました。

また、2003年6月11日配信の『よみうり教育メール』の相談コーナーには下記のような問答が載っています。そこにもあるように、髪や肌をどうするのかは、その人の「表面的な問題」ではなく、何者も侵すことのできない「人格」に含まれる大切なことです。こうした一つひとつの問題とちゃんと向きあっていくことが、これから先の自分の生き方を探っていくことになるのだと思います。


 多様な社会の中で、京女は茶髪ピアスも化粧も禁止していて、3年1組もその例外ではありません。だからこそ自分はどうするのか、覚悟を決めて明日を迎えてみませんか。

よみうり教育メール   発行日:2003.06.11(vol.669)   発行者:読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/

【相談】 山形県、高校教諭、男性

勤務している高校は服装や頭髪の指導にうるさく、頻繁に服装検査があります。保護者や教員の中にも茶髪が多い時代。個人的に「茶髪ぐらい」という気持ちが強く、生徒につじつまの合わないことを押しつけている気がして、厳しく指導することができません。こんな考え方は教員としてふさわしくないのでしょうか。


【回答】 教育評論家 尾木直樹

なんとやわらかな感性で優しい心の持ち主でしょう。久々に「先生らしい先生」に出会ってうれしくなりました。

それにしても、なんとつらい毎日でしょうか。学校側に立てば、生徒と無益な敵対関係にならざるを得ませんし、自分の教育理念や価値観を前面に出せば、「共通理解」「共同歩調」という美名のもと、「平等主義」を押しつけられて職員室での居心地が悪くなる。かといって黙っていると自己分裂しそうになり、教師そのものを続けていけるのだろうかとストレスがたまり、不安にもなります。

現場の状況だけに振り回されず、考える視点や判断基準を、客観性の強い教育本来の視点にしっかり据え直してみることが大切だと思われます。茶髪に対するあなたの考えは、全く正しいと思います。まずご自分の考えや感じ方に自信を持つことです。

髪の問題は服装と違って、身体の一部分に関することです。制服のように脱ぐことはできません。ですから、髪に対する強制は、他の校則と異なって明白な人権侵害に当たります。生徒指導の問題と絡めるべきではなく、即刻、単独で認めるべきことです。

とはいっても、それがすんなり受け入れられるような職員室や地域の文化、あるいは企業、保護者ではないことも「現実」です。そこで、次の段階は、これらの周囲の人々にどのように人権尊重の感性を広げていくのかが課題になります。職員室の同僚にも、話せば必ず共感してくれる人がいるはずです。そこにしっかりとした足場を築きながら、最終的には生徒とこのような悩みをいかに共有できるのかが問題になります。

歴史を振り返ると、時代の先駆者は常に異端児扱いを受けてきたものです。生徒と共感でき、信頼関係が築けていればいるほど、現実の圧力は強くなります。しかし今、焦りは禁物です。教師の中に共感を広げながら、生徒たちとも共感し合える関係を崩さないことが大切でしょう。時には、自分のつらさを吐露してもいいのではないでしょうか。

少なくとも生徒が「心に制服」を着ないで学校生活を送れることを目指しましょう。生徒も、教員と正面からぶつかるのでなく、今日の学校文化の矛盾として、理性的に分かってくれるはずです。一気に解決できないのがもどかしいのですが、そういう状況そのものを理解し、乗り越えていく子どもの可能性を信じて下さい。


(回答者)東京都内の公立中教諭、東京大教育学部講師などを経て、1994年4月から臨床教育研究所「虹」所長。教育臨床学が専門。「子どもの危機をどう見るか」(岩波新書)など著書多数。


つづく
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空を仰いで  その1  円ではなくって輪を作る

2003年度  2枚目 2003/04/12


右の言葉はスロープ下の法語板の「4月のことば」です。ホンマにそうやなあと思います。

僕が大学に入学した27年前の18歳の春、必修科目だった「教育原理」の最初の授業。大学の先生が黒板に「トゲトゲの出っ張りがいくつか付いたいびつな円」を描いてこう言いました。

「子どもはこうした凸凹のあるいびつな存在です。教育とは、それをバランスの取れた完全な円に近付ける仕事です」と言いながら、先生は黒板消しで凸を消して、小さな円を残したのです。

  • こぢんまりした
  • 円を描いて
  • 満足するより
  • 未完の円の
  • 大きな弧になれ

その小さな円を見たとたん、「そんなもんが教育やったら、教育なんか受けたくもしたくもないわ!」と思い、さっさと教室を出て二度とその授業は受けませんでした。(ただ必修なので試験だけは受けて、単位は取りました)

その時僕の頭の中にイメージしていた「教育」とは、トゲトゲの付いた小さくいびつな存在を、凸凹すべてを包含するような大きな円に成長させることでした。

でも、それから4年後に就職し、教師を何年かするうちに「それも違うよな……」と思うようになりました。「みんなが同じ形の円になってどうすんの」ってことです。トゲトゲや凸凹が残っていて型通りの美しさはないけれど、その人なりにバランスがとれていればそれでいい。

一人でバランスが取れないのなら、誰かと引っ付きあってやりくりつけばそれもいい。不細工だけどオリジナルでいとおしい存在が繋がり合って、大きな大きな輪を作れたら。

でも、あふれる情報や世間の噂や眼の中で「自分」を見失わないようにするのは大変です。そもそも「自分」がどんなものかも分からないって言うのが正直なところかもしれません。

「自分は何を大切にし、どこを伸ばしてどんな力を身に付けたいのか?」

「自分はどんな人達と、どこでどんな繋がりを持って生きて行こうとしているのか?」

僕にとっては、一度答えを出してもまた迷い、40過ぎても問い直し続ける難問です。

つづく
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