「人生山あり谷あり」と言うと、山は良い所で谷はとんでもなく悪い所だと決めつけてしまったようで、僕はそれを聞いた谷が気を悪くしているんじゃないかとドキドキしてしまいます。僕が住んでいるところは広岡谷という住宅地ですが、風変わりなお宮があり、移り住んでからの10年間に火事と土砂崩れと殺人事件が1件ずつあったぐらいの平和な街です。またオーロラ輝くフィンランドのムーミン谷では、きっと今日もスナフキンがのんびり釣をしていることでしょう。
その一方で、ドイツの詩人カール・ブッセは100年以上前に「山のあなたの空遠く/『幸』住むと人のいふ」と歌いましたが、今日も山を越えた向うの世界から、幸せを見つけられずに舞い戻ってくる人が絶えないようです。
人は必ず死ぬのですから可能性だけが無限のはずはなく、人それぞれに不平等な限界があり、正義が負けることもあるというのが現実です。だからこそ「人生山ありゃ谷もある」と歌われるワンパターンドラマ『水戸黄門』のファンが日本全国津々浦々に居るのでしょう。人々は思いもよらぬ出来事にまき込まれ、思うにまかせぬまま生きており、行方知れずの不安の海を漂っているからこそ、決まりきったハッピーエンドをテレビの中に求めるのかもしれません。そして過去を振り返ったとき、あの頃は良かったと思い出に耽ったり、あの時は最悪だったがなんとかなったと励みにするのが人の常です。
しかし、人生は一本の線や単純なグラフで描くことのできない複雑さと深みを持ったものです。じっくりその時々を見つめてみれば、「絶好調だったあの時は周りの人の微妙な思いを理解できておらず傲慢極まりなかった」とか、「最悪だったあの時に体験したあのことが自分の人生の基礎を作ってくれた」というようなことが見えてくるかもしれません。山は谷であり谷は山でもあるのです。
ここで僕らが気付くべきは、使い古された言葉が放つ「常識の毒素」です。先人の悪知恵と言い換えられるかもしれません。いかにももっともらしい言葉がじっくり吟味されることなく言い放たれ、聞く方もそれをしっかり咀嚼せずに飲み込んでしまう。その繰り返しの中で人々は同じような幸せを味わうかわりに、同じような過ちを積み重ねてきたのです。
大人はよく若者に「夢を持て!」と言いますが、若者が大人の思いもよらぬ「夢」を語り始め、それに向かって行動しようとすると、あわてて「現実を見据えよ!」と制止し足を引っ張ろうとします。また「個性を尊重すべし」と言う大人も、明るく活動的で大人のイメージの範疇にある子は「個性的」と評価しても、暗くて内向的で理解しがたい子は「問題児」として矯正しようとしがちです。
君がそうしたことに痛みや疑問を感じるならば、「成人」するまでに、大人の言うことをもっと注意深く聞くべきです。そして自分より「先に生まれ長く生きた人々の行い」をもっともっとじっくり見るべきです。そこには過去から受け継がれた豊かな文化や引き継ぐべき多くの教訓が含まれているでしょう。と同時に、大人たちが解決できなかった矛盾や持ち越された課題も多々あるはずです。
君が否応無しに受け継がされる「負の遺産」とは、この世に満ちた対立と憎悪、繰り返される暴力と虐待、知識を得るたびに気付かされる根深い差別と偏見、「自由な競争」により広がる貧富の格差と弱者の切り捨て、自分が何者であるのかを知るために不可欠な伝統的な文化の喪失と言い知れぬ不安etc.と数え上げれば切りがありません。
こうした問題が「これまでの大人たちのやり方」では解決できなかったという事実を知るならば、君はそうした大人たちのやり方をまねしてはならないでしょう。そうした大人たちが「良し」とし「すべし」と言う「常識」を、まずは疑ってかかる事が引き継がされた問題を解決していく糸口となるはずです。見るべきは大人の失敗したやり方であり、見つけるべきは自分たちのやり方なのです。では、それを見つける視点とはいったい何なのか。
世の中には様々な文化やあれこれの立場があるのですから、物事の良し悪しやその価値を測る物差しもいろいろあるはずです。ところがある時代のある国や会社や学校や家では、一つの物差しですべてを測り、振り分け、切り捨てることがあります。また誰かと競争して勝ち、利益を上げようとする社会では、勝ち負けの基準がはっきりしている事が好まれます。また一部の人が様々な人々を支配しようとするときにも価値や判断の基準を一つに集中させようとします。
単一の基準で切り捨てるやり方は、一見合理的にさえ見え、それに異議を唱えにくくなるような「強さ」=恐さを持つことがあります。その時それは一種の暴力となり、人を支配し排除します。
しかし、単一の基準で測った時に無駄だの屑だのと切り捨てられるものにも、それ固有の価値があるのです。打ち捨てられるものにとって、それは無駄でも屑でもなく掛け替えのない価値なのです。これまでの大人達が引き継ぎ再生産してきた問題の多くが、そうした価値の切り捨てや多様性の否定から生み出されてきたとするならば、時には混沌として頼りなげにも見える雑多な価値を尊重し、自分と異なる価値をも緩やかに受容していくことでしか問題解決の方法は見つけられないでしょう。
ならば、個性を踏みにじるものと闘う武器を鍛え、多様性を受容できる大きな器を育てること。そして強制と競争ではなく共感と共生による世界を創出することが、君の自立の課題であり、僕に残された人生の責務でしょう。
最近の大江健三郎と野田正彰の言葉に触れて深めた思いをここに記しました。君の知恵と勇気と笑顔が誰かの支えとなることを願っています。
(3年1組担任)
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大江健三郎 /朝日新聞社
2003年9月出版
NDC:914.6 \1,200
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野田正彰 /みすず書房
2004年1月出版
NDC:304 \2,600 |
五木寛之 /集英社
2003年5月出版
NDC:914.6 \1,300 |
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