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管理人室

Project G≠フ起源は1960年代の終わりかけ。

その頃、ブラウン管の向こうでは、地球上でベトナム人を殺しまくっていたアメリカ人が月面に星条旗を立てて手を振っていた。一人の小説家が割腹自殺をしたり、暴徒が立てこもった山荘が巨大な鉄球で壊されていた。

 「科学はどんどん進歩しているのに、人間のやっていることはどうもおかしい。このおかしな世の中は、どうしたらもっとマシになるんだろう?」「結局人間の世の中は人が作っている。人を変えるには、いろんな人の心を理解できなくては!」正義感とヒューマニズムに目覚めた、この少年の軌跡を駆け足で紹介します。


小学生時代。学校の周りの田の苗を雑草抜きと称して用水路に投げ捨て、自動車の危険防止と称してタイヤの下に釘を敷き、鳥の訓練と称して「パチンコ」に鋏んだ銀玉でスズメを狙い、プロレスごっこと称していじめ−いじめられ、図書室で「木馬の冒険旅行」を何度も借りて波瀾万丈の人生≠ノ憧れた。

仲間と河原を掘って葦で囲った秘密基地にリカチャン人形を奉り女神様と崇めていた。そこへある日、一人の初老の土木作業員がやって来て言った。「オッチャンおしっこが出なくて困ってるんや。アイスキャンデーおごってやるからチンチンもんでくれへんか」。仲間と顔を見合わせながらも、困っている人は助けなければと、わけも分からず交替でもんだ。白い液体を飛ばした後、そのオッサンは自転車で去って行った。アイスキャンデーはもらえなかったが、僕らは文句を言わなかった。

給食の時「クジラの肉」を食べない女の子がいて不思議だった。その子に「今年は真実に生きます」と書いた年賀状を送ったら、正月が明けてから「あなたにとっての真実とは何ですか?」と書かれた葉書が帰って来た。「真面目」と書いたつもりだったとは「告白」できずに誤魔化した。彼女が「ものみの塔」の信者だったことを知ったのは、それからずいぶん後だった。

校庭でドッジボールをしている時、一人の女の子のスカートが捲れた。そのパンツが赤く染まっていた。それに気付いた他の女の子が「見たこと絶対誰にも言ったらいかん。約束守るなら『ジャンプ』貸したげる」と言った。僕は誓いをたて、家に帰って蒲団の中で永井豪の「ハレンチ学園」にトキメイた。しばらくして、その子の父親が事故で死んだ。お通夜に行った時、彼女に見つめられた。救いを求められているようで、それが恐ろしくて逃げるように走って帰った。何とも言えないやましさが襲った。


中学生時代。生徒手帳の備忘欄に「現代用語の基礎知識」の外来語、分けてもセクシュアリティに関する用語を書き写して暗記しつつ、昭和天皇即位の写真と佐藤栄作の写真をはさんでいた。航空自衛隊小牧基地の航空ショウへ足を運び、吉川英治の「宮本武蔵」に胸を躍らせ、谷川俊太郎訳のチャーリーブラウンの漫画(ピーナッツ・ブックス)で英語を覚えようとして失敗した。

好きな女の子を振り向かせようと多湖輝の「読心術」や超能力開発の本を読み、ガラス瓶の中につるしたネジを念力で動かすことに熱中した。毎晩日記にその子の名前を呪文のように書きまくった。彼女がプロテスタントの家の子だと知って、図書館で聖書を読んだ。ある朝学校に行くと、彼女のイニシャルの入りの手紙が机の中に入っていた。付き合ってほしいと書いてあった。どうしたらいいかわからず呆然とした。振り向かせることしか考えていなかった自分の未熟さと身勝手さを呪った。そして、その日から今日まで彼女と一言も口をきいていない。

自己嫌悪という言葉を初めて理解した。人生最初の挫折だった。卒業するまで決して女の子とは付き合うまいと決意した。

東京・富士・箱根の修学旅行は苦しかった。旅行の前日、学校からの帰り道、成績優秀で剣道の有段者で生徒会長だった友人から、ある少女に自分の恋心を伝えてほしいと頼まれた。勉強もスポーツもぱっとしない自分に頼む彼の顔は真っ赤だった。妙な優越感を感じて承諾した。しかし、その少女は「友達」を装いながら心を寄せていた少女だった。引き受けた頼みは果たせぬままの旅行の復路、独りレベッカを読みながら連結器の横で立ち続けた。ひたすら自分の卑怯さを恥じた。それでも、本当のことを彼にも彼女にも言えなかった。

卒業式の日は逃げるように校門を通り抜け、以後二度とくぐっていない。


高校生時代。入学した新設校は「愛知の管理教育」の城だった。入学式の校長のあいさつの冒頭は「学校の指導に文句がある者は今すぐここを去れ」だった。共産党員の教師が「緑化運動委員」に任命され、昼休みにたった一人で校庭の芝刈りをさせられていた。生徒の集会は禁止され、学校の印刷室も放送室も生徒立ち入り禁止だった。

仲間と一緒に「ユマニテ」と題した雑誌をガリ版刷りで作った。「詩画集」や「詩とメルヘン」をまわし読みした。安部公房に傾倒した。月夜の晩には二階の屋根瓦に寝そべって朔太郎の詩を口ずさんだ。本棚の奥に隠すように押し込んだ「毛沢東語録」や、本棚の一番上に立てかけた「山上垂訓」(福音書)を蒲団の中で一節ずつ暗唱した。通学電車に揺られながらフロイトやユングの本を読みふけった。

透き通るような膚を持った女の子に密かな思いを寄せた。しかし、ある日気付いたときには、彼女は統合失調症になって退学していた。

入学式の日に一目ぼれした女の子と帰りの電車の時間を合わせて毎日一緒に帰り、他愛もない話を延々とした。そのことを仲間の誰にも知らせなかった。そうとは知らず仲間の一人が彼女に好意を持ち、彼女と付き合えないかと相談して来た。お前のことを気に入ってるかもしれないと嘘をついた。それがもとで彼女と別れた。付き合っていた一年半、彼女の手すら握ったことがなかった。

小学校時代プロレスごっこの相手だった一人が自殺した。熱心な創価学会の信者の両親がお勤めをしている最中、襖を隔てた隣の部屋で首をつって死んだ。葬式には行ったが棺は見なかった。見たくなかった。

仲間の彼女が、彼の目の前で車に轢かれて死んだ。クラスの女の子達が千羽づるを折る姿を見るのがたまらなく苦痛だった。彼の家に慰めに行ったが、どうすることもできずに帰った。

何もかもが面倒になり、夜中にこっそり家を出て河原で煙草をふかして星空を眺めた。休みごとにバスや電車に乗って駅や港や空港や街中の公園をぶらぶらし、ホームレスのおっちゃんと話しをした。一升瓶をぶら下げたおっちゃんに「学生さんは勉強せなあかん!」と説教された。それで、遅まきながら受験勉強に集中した。


大学生時代。息苦しい家から何としても抜け出したくて、京都の教育大学に進んだ。管弦楽団に入り、ウォッカの味を覚え、パチンコに明け暮れ、中学・高校時代の教訓を生かそうと、ろくでもないことをしたおした。最初の授業の後一度も講義を受けず、レポートだけで単位を取った科目は数知れず。今でも時々、単位認定されていなくて実は卒業できていなかったという夢を見る。戦争児童文学を専攻し、「狭山裁判」のデモに東京まで出掛けた。

四回生までに全ての単位を取って教育実習も終えたが、卒論を提出せず卒業しなかった。大学院に進むつもりだった。小川未明の作品論を書き、ラフマニノフとフォーレを聴きながら五回生を過ごした。モラトリアムという言葉も色褪せ始めた時代だったが、国文学科には八回生まで揃っていて抵抗感はなかった。ただ、4年間付き合っていて先に卒業していた彼女と結婚するためには就職しなくてはと焦った。秋、女子校の採用試験に受かって国語の教師になった。卒業論文は「小川未明  『赤い蝋燭と人魚』における赤の意味」


勤めてこの方。不登校の生徒を何人も担任し、何人もの心理療法士や精神科医と何時間も話をし、卒業させた。家出をして夜中に電話をかけて来る子を車で迎えに行って、女の先生のところに泊めてもらうよう頼みこんだ。妊娠したことを父親にも言えないまま母親とこっそり中絶し、荒れていた子と交換日記をした。同性愛であることをカミングアウトして家にいられなくなった子と親の仲を取り持った。授業料が払えず卒業できない子の学費を何とかした。

その一方で、力及ばず中途退学させざるを得なかった子がおり、心至らず傷つけてしまった親も多々ある。今にすればセクハラと訴えられても仕方のないことをした。若かったのではなく、無知だった。無知は罪であることを改めて悟った。スペシャリストである以上に、ジェネラリストたらんと願った。

宗教やカウンセリングや女性学や、あれこれの講座やワークショップに何十回も参加した。雑多な本を読み、新聞記事をスクラップにした。生徒達とも、精一杯共に学んだ。それらをもとに、新たな女子校の未来を切り拓く手立てを考え、文章にし訴えた。が、圧殺された。

今座っている職員室の椅子には、二枚のクッションを敷いている。その下側の一枚は、1985年の春に「私が使ってたクッション、取りに来るまで預かっておいて。使ってていいし」と言って、卒業していった生徒のものだ。10年ほど前に擦り切れた布地を隠すため、その上にもう一枚を重ねた。彼女はそんなことを覚えているはずもないだろうが、それは問題ではない。自己満足といわれようが、捨てずに持っていることが大切なことなのだと思う。

これまでに学んだ一番のことは、誰かを救おうなどと思うものではないし、そんなことは思ってもできないということ。ただ、学ぶことで、面倒がらずにあきらめないことで、誰かの何かの足しにはなれるということ。そして、それにはそれ相応の覚悟と、孤独に耐える決意と、必ず仲間が現れることを信ずる信念が必要だということ。

そんな日々の中、残り少ない人生で何かできることはないかと思いを巡らせた時、このProject G≠ノ思い至った。

「してないことはできないこと、していることができること。」「過去は問わない、未来はない。あるのは今だけ。」そう、つぶやきながら、ボチボチこのサイトを更新しています。何かあれば声をかけてください。できることはします。できないときはゴメンナサイ。 


そんな日々の果て……大学で知り合って28年、結婚して22年間一緒だった妻が低分化型腺癌に罹り、腸閉塞で緊急入院した2002年2月22日から2年半の入退院を繰り返した末、2004年7月3日たくさんの思い出を残して薬師山病院のホスピスで息を引き取りました。それからあとのおまけの人生、どうやって生きていくのか行かないのかの模索が始まりました。

妻の死の半年前には母が心不全で他界し、妻の死の一年半後には父も名古屋のホスピスでこの世を去り、そうこうする内に二人の息子は社会人になり、いよいよ自分独りがどう生きていくかの答えを、自分自身で出していくことに。

それまでに休み休みに機会を作って巡った佐渡、淡路、隠岐、三宅島、石垣島、西表島に加え、独り奄美諸島を巡り、トカラに渡るはずだった船が出なかったため屋久島にたどり着き、その二年後に土地を買い 「Project H honey com. cabin 六角堂」計画を立てました。



そして屋久島で……知り合った多くの方の励まし、ご縁を得て頂いた助力の甲斐あって2011年秋、屋久島六角堂はOpen。

二足のわらじの生活はまだ続いていますが、その終わりを告げる日はそう遠くありません。

いつの日か……六角堂でお会いできる機会があれば幸いです。