東京出身。父は山階宮菊麿王、母は菊麿王妃常子の第三王子として生まれる。皇族の息子はすべて軍人になるのが慣習であったが、藤麿は身体虚弱であったため、皇族として初めて兵役免除された。そのため歴史研究を志し、東京帝国大学国史学科に進学し、黒板勝美に師事。1927(S2)卒業し、東京代々木の自邸に筑波歴史研究室をつくる。国史関係の文献目録を集めた『国史学界』を発行。
'28.7.20(S3) 願により臣籍降下が認められる。筑波の家名を賜り、従三位勲一等、侯爵に叙せられる。同.10 旧佐伯藩毛利家で父は子爵の毛利高範の娘の喜代子(同墓)と結婚。臣籍降下以降は侯爵議員として貴族院議員を務める(〜'47)。
'46.1.25 靖国神社宮司に就任(〜'78.3.20在職中に逝去)。宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議された。合祀はするものの、時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀しなかった。'65.7 鎮霊社を建立。社団法人日本シェパード犬登録協会会長などを務めた。正4位。享年73歳。
筑波藤麿逝去に伴い、靖国神社第6代宮司となった松平永芳が、就任した年、'78.10.17 宮司預かりの保留であった極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯14柱(靖国神社での呼称は昭和殉難者)の合祀を実行した。
*墓所入口に石柱「筑波家墓所」、裏面「昭和六十三年三月吉日」。墓石は土饅型。左側(入口正面)に墓誌があり、筑波藤麿から刻む。「東京千代田区九段南にて逝去」と刻む。前妻は旧佐伯藩毛利家で父は子爵の毛利高範の娘、喜代子(S21.3.24歿 行年38才)、後妻は貞子(S48.10.1歿 行年66才 旧姓肥田)。同墓には長男で農学史学者の筑波常治、3男で11才で亡くなった常忠(S27.2.20歿)、当才で亡くなった4男の常高(S20.10.2歿)の名も刻む。墓誌の裏にもうひとつ墓誌が建ち、筑波裕美子(H27.12.23 行年63才 旧姓久保:和俊の妻)が刻む。
*筑波藤麿と喜代子の間に4男2女を儲けた。長男は農学史学者の筑波常治(同墓)。長女の登喜枝は旧平戸藩主の伯爵の松浦陞の4男の松浦擇に嫁ぐ。次男の筑波常遍(常秀)は勧修寺門跡、真言宗山階派大本山勧修寺第45代長吏。勧修寺門跡は藤麿の生家山階宮の初代晃親王もこの職に在った。3男の常忠は11才で逝去。4男の常高は当才で亡くなる。後妻の肥田貞子(1907-1973:肥田和三郎の娘:同墓)との間の子は筑波和俊(1949-)、宮内庁掌典を務めた。なお、後妻の貞子の連れ子の幸子は山本英輔海軍大将の長男の山本光英に嫁ぐ。
*筑波藤麿の弟の鹿島萩麿(8-1-5-5→現在は墓じまい)、葛城茂麿(16-1-5-9)も臣籍降下した。また多磨霊園には臣籍降下した元皇族に一代で廃絶した音羽正彦(7-1-1)がいる。