東京出身。父は山階宮菊麿王、母は菊麿王妃常子の第四王子として生まれる。兄に筑波藤麿(7-1-15)、弟に葛城茂麿(16-1-5-9)がおり、同じく臣籍降下している。
学習院中等科卒業後、皇族の息子はすべて軍人になるのが慣習のため軍人の道を歩む。海軍兵学校予科を経て、1926.3(T15)海軍兵学校卒業(54期)。同期に大石宗次(後に中佐:7-1-3)、土肥一夫(後に中佐:8-1-12)らがいる。同.4 皇族議員として貴族院で活動。翌年、海軍少尉に任官し、戦艦「伊瀬」乗組となる。
'27.1.20(S3) 一三式練習機を操縦して航空術講習を修了。同.7.1 自ら臣籍降下を願い出て認められる。「鹿島」の家名を賜り、伯爵に叙せられた。臣籍降下に伴い貴族院の皇族議員資格が消滅した。同.10.1 勲一等旭日桐花大綬章。
臣籍降下後、戦艦「榛名」乗組となります。その後、横須賀鎮守府付、戦史研究のため海軍大学校に服務し、'29 海軍中尉に進級し、横須賀航空隊付となった。
しかし、健康を害し、'32.3 待命。同.7 学生時代から研究していた『ジュトランド海戦史論』の序文を、静養先の鎌倉で書き上げた。その翌月、8月26日、急性腹膜炎のため逝去。26歳の若さであった。没後、大尉に進級。
没後、同.10 遺産が東京養育院や東京養老院に寄付された。'34 兄の筑波藤麿によって「伯爵鹿島萩麿記念奨学基金」が創設された。また、絶筆『ジュトランド海戦史論』が刊行された。
結婚しておらず、子どももいなかったため、鹿島家の後継ぎとして、薩摩・島津家の出の公爵 島津忠重の二男で従弟にあたる晃久(あきひさ)が養子となり、鹿島家・伯爵を継承した。鹿島晃久は海軍技術大尉。子爵の松平慶民の娘の英子と結婚。1男2女を儲けた(昌子、弘久、始子)。