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つくば ひさはる

筑波常治

つくば ひさはる

1930.9.9(昭和5)〜 2012.4.13(平成24)

昭和・平成期の農学史学者、
科学評論家、伝記作家

埋葬場所: 7区 1種 15側

 東京府豊多摩郡代々幡町代々木(東京都渋谷区元代々木町)出身。山階宮菊麿王第三王子の侯爵の筑波藤麿、旧佐伯藩毛利家の喜代子(共に同墓)の長男として生まれる。弟に真言宗山階派大本山勧修寺第45代長吏の筑波常遍(常秀)、宮内庁掌典の筑波和俊がいる。明仁上皇(平成天皇)は はとこにあたる。
 学習院初等科、中等科に進むが、2年生の時にいじめを受けたため、'45.4 中等科2年修了の資格にて海軍経理学校(39期)に編入学したが、すぐに終戦となり学校閉鎖。農業に関心があったことで、伯父の山階芳麿の紹介で日本農業研究所の臨時農夫となる。'48 農業の勉強をするために東京農業大学予科に入学したが、肌に合わず中退し、'49東北大学農学部に改めて入学をし直し、'53卒業。そのまま同大学の大学院農学研究科修士に進み、作物遺伝育種学を研究した。
 '56修了後、法政大学で助手となり、生物学と科学史を担当。法政大学専任講師から助教授を経て、'68依願退職して、青山学院女子短期大学助教授に転身。自然科学概論と科学文化史を担当。'70同校を依願退職し、フリーランスの科学評論家として著述業に従事する傍ら、早稲田大学教育学部などで非常勤講師を務める(〜'81)。'82早稲田大学政治経済学部助教授、'87教授。日本農業技術史、自然科学史を専門とした。2001(H13)停年退官、名誉教授。
 著作は多く、『日本農業技術史』(1959)、『破約の時代』(1959)、『ダーウィン 進化論をとなえた人』(1960)、『日本人の思想 農本主義の世界』(1961)、『科学事始 江戸時代の新知識』(1963)、『日本の農業につくした人々』(1968)、『米職・肉食の文明』(1969)、『五穀豊饒 農業史こぼれ話』(1972)、『日本をめぐる現代の幻想』(1974)、『自然と文明の対決』(1977)、『農業博物誌 全4巻』(1978)、『生命の科学史 その文化的側面』(1980)、『小学校社会科全集 日本の歴史』(1982)、『人類の知的遺産 ダーウィン』(1983)、『生命科学史』(1985)、『日本の農書 農業はなぜ近世に発展したか』(1987)、『生物学史 自然と生きものの文化』(1993)などがある。
 偉人の伝記書物も多く書いており、『明治天皇』『野口英世』のほか、『筑波常治伝記物語全集』として多くの伝記を出した。着衣から持ち物など身の回りにモノを緑色で揃えていたため、「緑の麗人」と称された。享年81歳。

<華族 歴史大事典>
<人事興信録など>


墓所

*墓所入口に石柱「筑波家墓所」、裏面「昭和六十三年三月吉日」。墓石は土饅型。左側(入口正面)に墓誌があり、父の筑波藤麿から刻む。母は旧佐伯藩毛利家で父は子爵の毛利高範の娘、喜代子(S21.3.24歿 行年38才)、父の後妻は貞子(S48.10.1歿 行年66才 旧姓肥田)。同墓には自身のほか、3男で11才で亡くなった常忠(S27.2.20歿)、当才で亡くなった4男の常高(S20.10.2歿)の名も刻む。墓誌の裏にもうひとつ墓誌が建ち、筑波裕美子(H27.12.23 行年63才 旧姓久保)が刻む。異母兄弟の和俊の妻である。

*筑波藤麿と喜代子の間に4男2女を儲けた。長男は農学史学者の筑波常治。長女の幸子は山本英輔海軍大将の長男の山本光英に嫁ぐ。二女の登喜枝は旧平戸藩主の伯爵の松浦陞の4男の松浦擇に嫁ぐ。次男の筑波常遍(常秀)は勧修寺門跡、真言宗山階派大本山勧修寺第45代長吏。勧修寺門跡は藤麿の生家山階宮の初代晃親王もこの職に在った。3男の常忠は11才で逝去。4男の常高は当才で亡くなる。藤麿後妻の肥田貞子(1907-1973:肥田和三郎の娘:同墓)の子(異母兄弟)は筑波和俊(1949-)、宮内庁掌典を務めた。和俊の妻が裕美子(1952-2015.2.23 同墓)。


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