東京出身。父方祖父は海軍軍医制度創設した海軍軍医総監の戸塚文海。母方の祖父に英学者で翻訳家の渡部温。父は海軍軍医総監の戸塚環海(同墓)。環海の長男として生まれる。弟の戸塚武比古(同墓)海軍技術少将。伯父に化学者で東京瓦斯社長も務めた高松豊吉。
神奈川県横須賀出身。父の赴任先で生まれ、その後も赴任先、長崎県佐世保の高等小学校に入り、東京への異動に伴い暁星中学校に編入。1909(M42) 第一高等学校在学中、麻布教会主任トゥルペン司祭から洗礼を受ける。洗礼名はヴィンセンシオ・ア・パウロ。代父には当時の東京帝国大学生だった岩下壮一が立っている。
'12 東京帝国大学医学大学に入り、外科学を専攻。卒業後、佐藤外科に入局。'21(T10)北海道帝国大学助教授になり、文部省から研究員としてヨーロッパ留学を命ぜられる。パリのパスツール研究所で留学中、岩下壮一に招かれロンドンに行き、修道院で修道女の姿に感銘し司祭になることを決心した。パリで神学、ラテン語、哲学等を習得し、'24.6 サン・スルピス新学院で司祭叙階を受け、'25.1 帰国。
帰国後、同.3 父が院長をつとめていた戸塚外科病院(1907開院)を引き継ぎ、カトリック精神に則った聖ヨハネ汎愛医院と改名し、品川に開院した。以降、司祭・医師として患者の診察にあたる。
'29(S4) 東京公教神学校講師となり自然科学を担当。結核回復患者の施設を作り、のちに千葉県海上郡の九十九里浜に移転させ、ナザレト・ハウス(海上寮療養所)を創設した。
'32 目黒区に聖ヨハネ医院を新設。また カトリック新聞社社長に就任。カトリック新聞の刊行、雑誌「カトリック」の編集長としてカトリック言論界でも活躍。医療、カトリック関連の書物を執筆、翻訳した。
'38 聖ヨハネ医院を北多摩郡小金井村西小川(東京都小金井市)に移転して拡張する準備を始める。翌年、その病院建設の計画達成に向けて資金に奔走、その最中、心臓発作で倒れ急逝。享年47歳。没後、戸塚文卿の医療福祉と結核共済に尽くす志を、遺された医院メンバーが引き継ぎ院名を「桜町病院」と改名し落成(1939.10.18)。病院に奉仕する女子修道会「聖ヨハネ会」創立を構想していた遺志は、メンバーのひとり、岡本ふく が福音史家聖ヨハネ布教修道会を設立(1944)して実現させた。現在の病院の正式名称は「社会福祉法人 聖ヨハネ会 桜町病院」である。
*墓所には正面に和型「戸塚家之墓」、裏面「昭和七年七月建之」。墓所左側に十字架墓石が二基並ぶ。墓所左側の奥に十字架墓石の台座正面「マリヤ・アンナ 戸塚春子 / フランシスコ・ザビエル 戸塚元吉 / フランシスカ 戸塚登美子」が刻む。右面は「戸塚春子墓」、左面は戸塚春子の生没年月日と洗礼日が刻む。春子は戸塚武比古の妻。手前の十字架墓石の台座正面「マリヤマグダレナ 戸塚治子 墓 大正十三年十一月十九日永眠」と刻む。
*墓所右側に墓誌が二基建つ。奥の古い墓誌に戸塚環海、妻は はな(M4.3-S7.3.19:渡部温の二女)。二人の間には6男4女を儲けている。男子子息全員が眠る。長男の戸塚文卿は医師でカトリック司祭。二男の戸塚武比古は海軍技術少将。三男は戸塚芳男(M35.2-S57.8.27)、四男は戸塚環(M38.5-S58.8.23)、五男は戸塚榮(M40.5-S62.2.1)、六男は戸塚壽(T1.8-S20.3.11)。長女の あき(M26.8生)は小田助右衞門の長男の小田胤康に嫁ぐ。二女の はる(M27.11生)は男爵の久保田讓の4男の久保四郞に嫁ぐ。三女の 京(M31.8生)は猪間信一郞に嫁ぐ。四女の鄙子(M36.9生)はビクター社長の百瀨結に嫁いだ。
*手前の新しい墓誌には戸塚元吉(H23.10.13歿・行年88才)、圭介、登美子が刻む。戸塚元吉は桜町病院長を務めた医師で専門は耳鼻咽喉。『耳鼻咽喉手術の全身麻酔』(1962)など耳鼻咽喉系の本を多数出版している。また『聖ヨハネホスピスのめざすもの: 講演集 安らぎの中で生きるために』(1994)もある。
*戸塚武比古の妻の春子(M35.4-T13.11.19)は、海軍少将で日本人で初めてゴルフをした人物の水谷叔彦(7-1-13)の三女で、戸塚武比古の妻。22歳の若さで亡くなっている。なお春子の姉(長女)は明石製作所創業者の明石和衡(6-1-13)の妻の久。
※「歴史が眠る多磨霊園」筆者である小村大樹の母親である小村みじゅは、末期のすい臓がんとなり余命いくばくもない中、最期を全うする場所を桜町病院のホスピスとし入所。亡くなるまでの約一か月間を過ごしました。看護師の方にとても良くしてもらい、修道女から頂いた十字架のネックレスを大変喜んでいました。母は戦後すぐの混乱期に鹿児島県奄美群島の徳之島で生まれました。実母を5歳で亡くし、兄弟姉妹もたくさんおり、貧困であったため、近所の教会でよくご飯をたべさせてもらっていたことを思い出していました。最期もお世話になったと、修道女から頂いた十字架のネックレスを私に見せながら笑っていました。