三河国八名郡賀茂村定重(愛知県豊橋市賀茂町宗末)出身。林九一郎の長男。幼名は芳太郎。草鹿砥宣隆の門に入り読書習字を学び、次いで吉田藩(豊橋)の儒臣の小野湖山に漢詩を学んだ。働きながら本多匡の小竹園で漢学も勉強した。明治新政府の役人となった大判直清に身を寄せた後、英医の石神豊民の学塾に塾僕として住み込み、ここで医者になる決意をした。
1872(M5) 陸軍・海軍が成立すると、陸軍はドイツ流、海軍はイギリス流の医風であったことから、海軍を選ぶ。海軍軍医療学舎に入る際に名前を林豊策と改名した。1874.11.18 軍医寮本科に入る。この頃、戸塚文海は蘭医ボードウィンの教育を受けたが、徳川慶喜の奥医師となり、勝海舟の勧めで海軍に出仕し、まもなく海軍病院長に着任。海軍軍医制度創設に尽力していた。その際、戸塚文海に見込まれる。1879 首席で卒業と同時に戸塚文海の養子となり、名前を戸塚環海に改名した。のち、養弟(文海の二男)の医師の戸塚文雄に家督を継がせ、1890 分家。
1880.2.5 海軍軍医副、1881.1.26 海軍少軍医に進む。27歳の時に自費で渡英する。1881.6.19 出港し、同.8.4 マルセーユ着、列車でリヨン、パリ経由でロンドンに入った。着いたときは夏休みであったため、ガーンジー島などを訪問。医学をセント・トーマス病院学校で学び、アンデルソンに師事。1886 英国で医師免状を取得。その後、官費留学生となり、ベルリンにてロベルト・コッホの下で病菌学を学んだ。その2年後にコッホはコレラ菌を発見している。約7年間欧州に滞在し、1888.7.27 34歳の時、帰朝。同.8.10 海軍軍医少監となり、軍医校教授となる。この頃、渡部温の二女の はな(同墓)と結婚。
1890.1.11 浪速軍医長、同.1.17 高千穂軍医長、1891.11.20 横須賀鎮守府海兵団軍医長となり、衛生会議議員を務める。明治天皇の御召艦の軍医長などを経験した。1894.6.20 軍医大監に昇進し、横須賀鎮守府軍医長 兼 病院長に就任。
日清戦争が始まると、同.8.17 神戸丸乗組、同.12.5 旅順口海軍根拠地の病院長に着任した。1895.7.16 呉鎮守府軍医長 兼 病院長を経て、1896.12.16 海軍大学教官 衛生会議議員、1897.4.1 海軍省医務局第二課長を兼務した。1898.4.1 海軍軍医学校長 兼 教官に任じられた。1899.3.22 初瀬乗組、回航委員として英国出張。帰朝後、再び、1901 海軍軍医学校長に再任。
'02.5.27 海軍軍医総監に進む。日露戦争の際は、佐世保鎮守府医務部長 兼 佐世保病院長を務める。同.11.10 佐世保鎮守府軍医長を兼ねた。日本海海戦で海軍は敵艦隊を全滅した際に、バルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督が重傷を負い、佐世保海軍病院に捕虜の患者として収容された。この時、東郷平八郎(7-特-1-1)連合艦隊司令長官、秋山真之参謀、山本信次郎副官が佐世保病院に見舞いに訪れた。この時の様子が戸塚環海の姿と共に、海上自衛隊佐世保資料館保管の絵画(作 石井柏亭)に残されている。なお、この場面は司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも出てくる。これらの功に依り勲2等に叙し、功3級金鵄勲章を賜る。
'05.12.13 待命、休職。'07.2.14 予備役編入。同年、戸塚外科病院の立ち上げに参画し、病院長を務めた。'14.3.1(T3)後備役。'18.11.11 退役。'19.9.23 最終階級の軍医総監は海軍軍医少将となる。
'25.1(T14)長男の戸塚文卿(同墓)が欧州留学から帰国。同.3 病院を文卿に継がせる。その際、医者でありながらもカトリックの神父でもあったことから、戸塚外科病院を聖ヨハネ汎愛病院と改名した(後に小金井市に移転し現在の桜町病院となる)。環海も医業を続けた。従4位 勲2等 功3級。享年77歳。没後、二男で海軍技術少将の戸塚武比古(同墓)が『戸塚環海伝』(戸塚祐夫 編集)を著した。
*墓所には正面に和型「戸塚家之墓」、裏面「昭和七年七月建之」。墓所左側に十字架墓石が二基並ぶ。墓所左側の奥に十字架墓石の台座正面「マリヤ・アンナ 戸塚春子 / フランシスコ・ザビエル 戸塚元吉 / フランシスカ 戸塚登美子」が刻む。右面は「戸塚春子墓」、左面は戸塚春子の生没年月日と洗礼日が刻む。春子は戸塚武比古の妻。手前の十字架墓石の台座正面「マリヤマグダレナ 戸塚治子 墓 大正十三年十一月十九日永眠」と刻む。
*墓所右側に墓誌が二基建つ。奥の古い墓誌に戸塚環海、妻は はな(M4.3-S7.3.19:渡部温の二女)。二人の間には6男4女を儲けている。男子子息全員が眠る。長男の戸塚文卿は医師でカトリック司祭。二男の戸塚武比古は海軍技術少将。三男は戸塚芳男(M35.2-S57.8.27)、四男は戸塚環(M38.5-S58.8.23)、五男は戸塚榮(M40.5-S62.2.1)、六男は戸塚壽(T1.8-S20.3.11)。長女の あき(M26.8生)は小田助右衞門の長男の小田胤康に嫁ぐ。二女の はる(M27.11生)は男爵の久保田讓の4男の久保四郞に嫁ぐ。三女の 京(M31.8生)は猪間信一郞に嫁ぐ。四女の鄙子(M36.9生)はビクター社長の百瀨結に嫁いだ。
*手前の新しい墓誌には戸塚元吉(H23.10.13歿・行年88才)、圭介、登美子が刻む。戸塚元吉は桜町病院長を務めた医師で専門は耳鼻咽喉。著書も多数刊行している。
*戸塚文海(1835.10.24-1901.9.9)は備中国浅口郡(岡山県倉敷市)出身。中桐幸右衛門の子として生まれ、幕府奥医師で蘭方医の戸塚静海の養子となる。戸塚静海はシーボルトよりオランダ医学を学び、将軍の徳川家定の急病に対して法眼に叙せられる(担当医)である。