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とづか たけひこ

戸塚武比古

とづか たけひこ

1896.6.13(明治29)〜 1982.4.6(昭和57)

大正・昭和期の海軍軍人(技術少将)

埋葬場所: 8区 1種 16側

 東京出身。父方祖父は海軍軍医制度創設した海軍軍医総監の戸塚文海。母方の祖父に英学者で翻訳家の渡部温。父は海軍軍医総監の戸塚環海(同墓)。環海の二男として生まれる。兄の戸塚文卿(同墓)は医師でカトリック司祭。伯父に化学者で東京瓦斯社長も務めた高松豊吉。
 1921.4.11(T10)東京帝国大学工学部応用化学科卒業。同.4.26 海軍造兵中尉に任官し、横須賀鎮守府付になる。同.7.29 火薬廠附となり、以降、火薬畑を歩むことになる。
 '22.2.1 火薬廠火薬部副部員 兼 研究部副部員。'23.4.1 海軍艦政本部一部一課 兼 火薬廠火薬部部員 兼 研究部部員となる。同.12.1 造兵大尉に進む。'25.4.1 海軍大学選科学生となる。'28.4.1(S3)火薬廠研究部部員 兼 技術研究所員を経て、'29.3.1 横須賀鎮守府付として、欧米各国出張。'29.11.30 造兵少佐となり、'30.6.22 帰朝。同.7.20 呉工廠砲熕実験部部員 兼 砲熕部検査官を経て、'34.11.15 造兵中佐に進級し、技術院研究所員(理学研究部)兼 海軍艦政本部員(一部 兼 二部)に着任。同.12.1 海軍艦政本部造兵監督官も兼ねた。
 '38.12.1 呉工廠火工部部員 兼 砲熕実験部部員 兼 魚雷実験部部員。'39.11.15 造兵大佐に進級し、呉工廠火工部長に就任。'42.11.1 役職名の変更に伴い技術大佐になる。太平洋戦争中は、'42.11.10 豊川工廠火工部長を務める。'45.5.1 技術少将に昇格するも終戦を迎える。戦後、同.9.20 予備役編入。
 晩年は父の歴史をまとめた『戸塚環海伝』(戸塚祐夫 編集)を著した。享年85歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧>


*墓所には正面に和型「戸塚家之墓」、裏面「昭和七年七月建之」。墓所左側に十字架墓石が二基並ぶ。墓所左側の奥に十字架墓石の台座正面「マリヤ・アンナ 戸塚春子 / フランシスコ・ザビエル 戸塚元吉 / フランシスカ 戸塚登美子」が刻む。右面は「戸塚春子墓」、左面は戸塚春子の生没年月日と洗礼日が刻む。春子は戸塚武比古の妻。手前の十字架墓石の台座正面「マリヤマグダレナ 戸塚治子 墓 大正十三年十一月十九日永眠」と刻む。

*墓所右側に墓誌が二基建つ。奥の古い墓誌に戸塚環海、妻は はな(M4.3-S7.3.19:渡部温の二女)。二人の間には6男4女を儲けている。男子子息全員が眠る。長男の戸塚文卿は医師でカトリック司祭。二男の戸塚武比古は海軍技術少将。三男は戸塚芳男(M35.2-S57.8.27)、四男は戸塚環(M38.5-S58.8.23)、五男は戸塚榮(M40.5-S62.2.1)、六男は戸塚壽(T1.8-S20.3.11)。長女の あき(M26.8生)は小田助右衞門の長男の小田胤康に嫁ぐ。二女の はる(M27.11生)は男爵の久保田讓の4男の久保四郞に嫁ぐ。三女の 京(M31.8生)は猪間信一郞に嫁ぐ。四女の鄙子(M36.9生)はビクター社長の百瀨結に嫁いだ。

*手前の新しい墓誌には戸塚元吉(H23.10.13歿・行年88才)、圭介、登美子が刻む。戸塚元吉は桜町病院長を務めた医師で専門は耳鼻咽喉。『耳鼻咽喉手術の全身麻酔』(1962)など耳鼻咽喉系の本を多数出版している。また『聖ヨハネホスピスのめざすもの: 講演集 安らぎの中で生きるために』(1994)もある。

*戸塚武比古の妻の春子(M35.4-T13.11.19)は、海軍少将で日本人で初めてゴルフをした人物の水谷叔彦(7-1-13)の三女で、戸塚武比古の妻。22歳の若さで亡くなっている。なお春子の姉(長女)は明石製作所創業者の明石和衡(6-1-13)の妻の久。


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