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あかし かずえ

明石和衞

あかし かずえ

1888.8.30(明治21)〜 1956.5.6(昭和31)

明治・大正・昭和期の陸上選手(短中距離走)、
ゴルファー、機械工学者、実業家(明石製作所)

埋葬場所: 6区 1種 13側

 東京出身。第一高等学校在学中より陸上競技の短距離ランナーとして活躍した。日本の陸上競技黎明期であったため、コーチがおらず英米の陸上競技書を読み競技に活かし、主に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として大会に出場。
 東京帝国大学に進学し、学校運動会では、100メートル走・200メートル走・400メートル走で優勝。1911.11.18(M44)国際オリムピック大会選手予選会に出場。これは翌年のストックホルムオリンピックの日本代表選手選考会で、創立したばかりの大日本体育協会が取り組んだ最初の事業である。明石は、200メートル走で 25秒8、走幅跳で 5メートル48 を記録して優勝した。200メートル走と走幅跳の記録は初代日本記録(日本学生記録)とされる。100メートル走でも予選では優勝者の三島弥彦と並ぶ記録を出している。ただ日本代表として選ばれたのは長距離代表に金栗四三と、短距離代表に三島弥彦の二名が選出され、明石は落選。この二名が日本及びアジア初として世界大会(オリンピック)に出場した(結果は両名とも棄権及び予選敗退)。
 '13(T2)東京帝国大学工科大学機械工学科卒業。恩賜の銀時計を受け、大学院特選給費学生として母校に残る。同.11 大日本体育協会主催の第1回全国陸上競技大会(現在は第1回日本陸上競技選手権大会と位置付けられる大会)に参加。100メートル走で 12秒4、200メートル走で 25秒4、110メートルハードルで 17秒5 のタイムを出し3種目で優勝した。
 '14 第2回日本陸上競技選手権大会では100メートル走で 12秒1 を出し2連覇を達成。'15.10.21 全国陸上男子走幅跳では 5メートル90 を叩き出し日本記録を樹立した。あお明石が日本記録を叩き出す直前、同日に慶應大学の甲斐義智が 5メートル73 の日本記録を先に出したが、明石がすぐに塗り替えたため、甲斐は短命な日本記録保持者として記録されている。同年、第2回極東選手権競技大会(上海)に短距離走の日本代表選手として参加した。また明石は日本で初めてスパイクを履いて走った選手ともされている。
 '16.5.10(T5)陸上選手としては一線を退き、平生釟三郎の支えのもと、27歳の時に明石製作所を創業(資本金4万円:平生が2万、明石が平生からの貸付で1万、中嶋5千、風間5千)。取締役となるが、階級的な差別をなくすために社長を設けず、社員からは「明石」と呼ばせたそうだ。当時はほとんど輸入に頼っていた精密機器の国産化を目的として発足し、以来、あらゆる種類の材料試験機、動釣合試験機、各種振動計、地震計などつぎつぎと独創的な設計による製品を生み出し斯界の最高峰に位置する基礎を開いた。
 同.9 これからの世代のために、金栗四三が長距離走、明石が短距離と中距離走の練習法について執筆した共著『ランニング』を刊行。'17 日本初の駅伝競走大会「東海道駅伝徒歩競走」では、選手選択委員の一人として運営に当たる。明石は金栗らと東京・神奈川等のチームを担当。京都・愛知組、大阪・兵庫組の3チームで競う予定であったが、結果として関東組と関西組の2チーム対抗となり、関東組を担当した。また、'25 第7回極東選手権競技大会(マニラ)に日本代表監督(役員)として参加した。
 '23.9.1 関東大震災で浅草七軒町にあった明石製作所の建屋が損壊。大震災を契機に、ドイツの精密機械会社「モール・ウント・フェーデルハッフ」、「トーンインダストリ」、「エミルパソスプルダ」等の代理権を獲得輸入販売に注力。モール社の材料試験機に改良すべき点を多々見出し、鋭意研究、当社独自の試験機製造に成功し、その後の経営方向を確定した。
 '24.3 明石製作所の輸入事業を譲渡して山本商会を創業。社長は山本敬蔵、明石は監査役として参画。
 '27.4.5(S2)昭和金融恐慌の煽りを受け、出資者の平生釟三郎が明石製作所を整理、新会社の立ち上げ再出発することを促す。明石は「ビームコンパス」と「脚長調節式コンパス」の米国特許取得。'28.5 合資会社を解散させ、資本金8万円で株式会社明石製作所を設立し、代表取締役に就任。材料試験機および振動計の製造販売に尽力。また同年、精密工学会が設立されると副会長に推され就任。この時、初代会長は大河内正敏、二代目会長は青木保であり、両名の副会長を務めた。
 この頃より、実業の傍ら、ゴルフを始める。ゴルフの練習を科学的にとらえ、例えば傾斜を用いて一定条件でボールを転がしたとき、どのような確率でボールがカップに入るかを詳しく実験したという。科学的アプローチからの独自のゴルフ理論でメキメキと強くなり、'28 東京ゴルフ倶楽部で開催された競技会に参加し摂政杯を獲得した。摂政杯とは摂政裕仁親王(昭和天皇)からクラブに寄贈された賜杯のことである。その後は東京ゴルフ倶楽部に所属する強豪ゴルファーとして知られるようになる。さらに、'35 山梨県の富士ゴルフコースの設計にも携わっている。この間、'33 大日本体育協会や日本陸上競技連盟の評議員を務める。しかし、'35 足の腱を切る事故を起こし、以降はランニングを控えたという。
 '36 明石製作所は資本金25万円に増資。工場建設にも着手した。'37 小金井カントリー倶楽部を設立し社長になる。'38 資本金45万円に増資。試験機性能は世界的水準に達し、同種機械の輸入を抑える。しかし、戦争への色濃い時代となり、戦時中は試験機需要が急増するも、設備拡張せず、材料試験機、振動計の研究に専念した。
 '40.11.10 紀元二千六百年式典に際して、多年の功績から勲6等旭日単光章受章。'41 渡辺清と共著『岩波講座機械工学 5 工學測定 釣合試験』を著した。'45.2 「支へ刃ノ負荷能力」で東京帝国大学より工学博士。
 戦後、'48 長年副会長を務めていた精密工学会の第3代会長に就任したが、翌年に退く。'49.7.13 経営状態が悪化していた山本工業株式会社の代表取締役社長に就任し、人員整理などをして立て直しを行う。'50 微小硬度計が完成する(この改良形が 1961 科学技術庁長官賞を受賞)。'51 強震計の開発をし完成させる。同年、山本工業株式会社を株式会社小金井製作所と社名を変更。'54.9 米国フィラデルフィアの第1回国際計測機器会議・展示会に、微小硬度計、電子顕微鏡を出展して海外の賞賛を博す。
 晩年は観光保養のため旅を求め、またプロ野球に興味を抱き熱烈な巨人ファンとして、しばしば後楽園球場に足を運んだ。そんな折、'56.5.6 後楽園球場にて巨人対中日戦を観戦中に倒れ急逝。享年67歳。聖イグナチオ教会にて葬儀が営まれた。また亡くなった年が明石製作所の創業40周年であった。会社は長男の明石和彦(同墓)が引き継いだ。

<日本スポーツ人名事典>
<明石製作所カタログ>
<日本機械学会誌 第59巻 第450号「明石和衛博士をおもう」久田太郎>
<「なつかしの仕事場・明石製作所」HP>


墓所

*墓所内には二基の洋型墓石が建ち、右側「明石和衞 / 久」、左側「明石家」が並んで建つ。明石和衞の墓石の裏面には和衞、妻の久(1898.8.2-1972.5.30)、長男の和久(1919.7.1-1921.1.19)が刻む。「明石家」墓石の裏面は墓誌となっており、二男で会社を継いだ明石和彦の名が刻む。戒名は蓮乗院殿法宣和光日彦大居士。

*株式会社明石製作所は日本の計測機器、試験機、電子顕微鏡メーカーとして発展したが、2代目社長の明石和彦が、1989(H1)に亡くなり、バブル崩壊、円高不況以来、業績が伸び悩み事業の継続を断念、1990(H2)会社清算され、明石製作所は74年の歴史に幕を閉じた。計測機器・試験機事業は株式会社アカシに引き継がれ「ミツトヨ」の子会社となり、電子顕微鏡事業は東芝グループの傘下となった。



第485回 最初のスプリンター 初代日本記録達成 陸上選手 ゴルファー
明石製作所創業者 明石和衞 お墓ツアー


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