備中国玉島長尾(岡山県倉敷市)出身。代々庄屋を務める田邊新三の三男として生まれる。名は華(か)。字は秋穀(しゅうこく)。通称は為三郎。実業家や政治家の時は本名の田邊為三郎。碧堂は雅号で漢詩人の時の名前。
玉島長尾の生家は屋号を「番屋」とした庄屋をつとめていた。そのため文人・墨客が多く訪れ、江戸後期の歴史家で漢詩人の頼山陽も出入りしていた。頼山陽は田邊家の居宅を暎碧堂(えいへきどう)と名付けた。碧堂の名の由来はここからとったものである。
7才の時に父を亡くす。以降は母の手で厳しく育てられた。また兄の竹窓(ちくそう)の私塾で七言絶句を学んでいたが、体が弱く、正式な学校教育を受けることはできなかった。しかし、独学で漢学の他に欧米語、また翻訳書をもとに政治経済学を修得した。1879(M12)家督を相続す。
1886(M19)岡山県津山の大庄屋の安黒基の長女の智嘉と結婚。1888 地元の玉島紡績所に勤める。1890 優秀さが評判となり、塩田王の野崎武吉郎に請われ野崎家に入った。この時、26歳であったが、破格のマネーでヘッドハンティングされた。武吉郎が貴族院議員在任中は、野崎家筆頭理事として野崎家の塩田経営を担う。
1898.3.15 武吉郎の後押しで第5回衆議院議員総選挙に岡山4区から進歩党公認で出馬し当選。同.8.10 第6回衆議院議員総選挙に憲政本党の公認で出馬し連続当選し、4年間代議士を務めた。また、1899 武吉郎の勧めと支援で白岩龍平と共に、上海・蘇州・杭州の三角航路を結ぶ大東汽船を創設。さらに、1903 湖南省の水上交通を担う湖南汽船も起こした。
1906(M39)17年間勤めた野崎家を辞め、大東汽船の社長に就任。しかし、翌 '07.3 大東汽船、湖南汽船、大阪商船、日本郵船の4社が統合され日清汽船が設立され、監査役に就任した。以降、10数年に渡り、中国と日本を行き来し日中友好に尽くした。
実業のかたわら森春濤(14-1-3-3)の茉莉(まつり)吟社で漢詩を学び、のち国分青厓(13-1-50)に師事して影響を受けた。碧堂は「詩は蚤歳(そうさい)より好む所で、絶句こそ日本人に適し、律詩、長詩は到底中国人に及ぶものでない」として、絶句のほかは1詩も作らず、「絶句の碧堂」としてその名を知られた。漢詩集『碧堂絶句』(T9)、『壮行集』(T10)、『凌滄集』(T13)、『衣雲集』(S7)などを刊行した。なお、絶句とは起・承・転・結の四句から成る漢詩のことで、一句五字の五言(ごごん)絶句と、七字の七言(しちごん)絶句とがある。
碧堂の詩は中国人が読んでも音の調子が素晴らしいと絶賛された。これに対して、碧堂は「言葉が通じないが外国語でも、そこには人間互いに相通じる旋律があると思う。同じ鳥の声を聴いても、ウグイスとカラスとは、心の琴線に触れるその感じがおのずから違うように」と語っている。
晩年は政財界から身を引き、二松学舎、大東文化大学教授となり漢詩を教えた。享年66歳。
<詩歌人名事典> <歴代閣僚と国会議員名鑑> <明治大正名詩選・日本漢詩・明治漢詩文集> <たまテレチャンンネル 漢詩人 田邊碧堂>
*墓石は和型「田邊碧堂墓」、裏面「昭和六年四月十八日歿 年六十八」。並んで左に小さ目の和型「田邊家之墓」が建つ。墓所右側に墓誌が建つ。本名の為三郎から刻みが始まる。なお、墓石は「田邊」、墓誌は「田邉」と刻む。妻は智嘉(慶應3.10-S26.7.26)。
*玉島長尾の生家近くの旧田邊家の墓所の一角に、和型「大観院摂心碧堂居士」と前面刻む田邊碧堂の分骨墓が建つ。
【田邊家】
※ 墓石や人名事典等は「田邊」、墓誌には「田邉」、最近の書物は「田辺」。
田辺為三郎(碧堂)の妻は岡山県津山の大庄屋の安黒基の長女の智嘉(1886結婚)。二人の間には2男4女を儲けた。長男の田邊綾夫(M22.9-S45.11.16:同墓)は日本通信工業取締役を務めた実業家。また壁堂の『衣雲集』は綾夫が発行した。綾夫の妻は寿(S55.4.25没:同墓)は政治家の坂本金弥の長女。碧堂の二男は敏夫(M24.12-S24.9.20:同墓)。長女の祥(M20.8生)は東北帝国大学教授の愛知敬一に嫁いだ。二女の幸子(M29.2生)は内田耕四郞に嫁いだ。三女は絃子(M34.9生)、四女は稻子(M41.10生)。
碧堂の孫、田邊綾夫と寿の間には二男三女を儲けている。長男は田邊令吉(S44.1.21歿・同墓)、二男は判事の田邊公二(同墓)。長女は弘子、二女は恵子、三女は安子。
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