東京出身。祖父は漢詩人の田邊碧堂(同墓)。父は実業家の田邊綾夫、寿(共に同墓)の二男。
第二次大戦中、学徒動員により海軍士官として従軍(海軍少尉に任官)。1945(S20)乗り組んだ駆逐艦「冬月」は、沖縄に特攻出動した戦艦「大和」に従った。戦艦大和が撃沈する中で多くの乗組員が冬月に救助されている。
戦後復員後、司法修習生(1期生)となる。1期生の中でも有名な俊秀として将来を期待された。また熱心なプロテスタントのクリスチャンである。
'47 東京地裁の労働部の判事補になる。'49.6.4 東京地裁判事補に就任。この時期、フォード財団に支援を受け日米法学交流計画が実現することになり、第一弾メンバーに選出され米国に派遣された。ハーバード、ミシガン、スタンフォードの各ロー・スクールで都合二年の研鑽を積み帰国。
'54.5.25 名古屋地裁判事補、'59.4.1 司法研修所付、民裁教官に就任。アメリカの法事情に精通していたため、民事訴訟法および民事裁判をはじめとする米国の法制度と実務を、精力的に紹介し、我が国の法律実務に貢献した。また卓抜な英語を活かして外国に向けての裁判所のスポークスマンとして活躍した。当時まだ貧しい敗戦国であった日本の法律実務家たちに奨学金を出してくれるよう、米国のロー・スクールをはじめ、関係方面に熱心に働きかけた。その結果、'59 ハーバード・ロー・スクールとサザン・メソジスト・ロー・スクールの二校が、司法研修所で選考した判事補、弁護士に奨学金を支給してもらえる交渉を成立させた。判事補のみならず弁護士をも奨学金受給資格者に加えたのは、敗戦後の日本の渉外法律実務を一貫して外国人弁護士(ほぼ米国人弁護士)が独占してきたことを心配し、不健全な状況を解消し、日本人弁護士に力を付けさせる目的であった。この米国のロー・スクールが日本の弁護士にも奨学金を支給するという途が開かせることに尽力されたことは、その後の日本の法曹界に多大な恩恵をもたらした。
'62.4.10 水戸地方裁判所判事に着任。病もあり、'64.4.1 東京地方裁判所に戻されたが、翌月、43歳の若さで逝去。没後、追悼録『恩寵の器』(1965)が出された。また、『田辺公二著作集』も刊行された。'84.5.5 勲5等瑞宝章追贈。
<人事興信録> <自由と正義 1999年12月号「日本のロー・ファームの合併と大規模化について 故田辺公二判事への報告」長島安治>
*墓石は和型「田邊碧堂墓」、裏面「昭和六年四月十八日歿 年六十八」。並んで左に小さ目の和型「田邊家之墓」が建つ。墓所右側に墓誌が建つ。祖父の田邊碧堂の本名の為三郎から刻みが始まる。なお、墓石は「田邊」、墓誌は「田邉」と刻む。田邊碧堂の妻(祖母)は智嘉(慶應3.10-S26.7.26)。
【田邊家】
※ 墓石や人名事典等は「田邊」、墓誌には「田邉」、最近の書物は「田辺」。
田辺為三郎(碧堂)の妻は岡山県津山の大庄屋の安黒基の長女の智嘉(1886結婚)。二人の間には2男4女を儲けた。長男の田邊綾夫(M22.9-S45.11.16:同墓)は日本通信工業取締役を務めた実業家。また壁堂の『衣雲集』は綾夫が発行した。綾夫の妻は寿(S55.4.25没:同墓)は政治家の坂本金弥の長女。碧堂の二男は敏夫(M24.12-S24.9.20:同墓)。長女の祥(M20.8生)は東北帝国大学教授の愛知敬一に嫁いだ。二女の幸子(M29.2生)は内田耕四郞に嫁いだ。三女は絃子(M34.9生)、四女は稻子(M41.10生)。
碧堂の孫、田邊綾夫と寿の間には二男三女を儲けている。長男は田邊令吉(S44.1.21歿・同墓)、二男は判事の田邊公二(同墓:墓誌には享年は四十四歳と刻む)。長女は弘子、二女は恵子、三女は安子。
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