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たけうち めいたろう

竹内明太郎

たけうち めいたろう

1860(安政7)〜 1928.3.23(昭和3)

明治・大正期の実業家(炭坑)、政治家

埋葬場所: 6区 1種 12側 11番

 高知県出身。1873(M6)父の大蔵省勤務とともに上京して東京同文社や仏学塾で英・仏語や自由民権思想を学ぶ。 やがて自由党に入って東京絵入新聞を刊行。86父から佐賀県の芳谷炭坑の経営を任せられ、94竹内鉱業を設立。 茨城・福島・北海道など全国各地で炭坑や鉱山の開発を行ってその経営に当った。
 度々欧米視察して工業の実態を研究。1902頃から青年技術者を欧米留学させたり、自分で設立予定の工科大学の教授陣の養成を始めた。 そのころ、早稲田大学でも理工学部の新設を考えていたが、教授陣の確保の最大の難点があり、それを知った明太郎は、養成していた学者をそっくり早稲田に提供、その給料を数年間も負担した。 こうして09早稲田の理工科本科の始業式が行われた。12高知工業学校、16(T5)唐津鉄工所、26小松製作所を設立するなど工業教育と産業教育の振興に大きな貢献をした。 その間、15(T4)、17、20と衆議院議員に当選。政友会に属して高知県への鉄道の普及に尽力した。

<コンサイス日本人名事典>


*竹内明太郎は郷士、豪農の山本賢一郎の娘、亀井と結婚。長男の竹内強一郎(同墓)は電機工学者。孫の竹内啓一は地理学者。


竹内 綱 たけうち つな
1839.12.26(天保10)〜 1922.1.9(大正11)
谷中霊園甲8号14側
 父は梅仙吉管。代々伊賀家の重臣。通称は万次郎。号は武陵。
 戊辰戦争に参加。西南戦争のクーデターに失敗し禁固1年。自由党結成に参画。板垣退助が岐阜で刺された時に傷を調べて処置をした。 1890(M23)衆議院議員。炭鉱や鉱山業にも従事して巨万の富を築いた実業家でもある。享年84歳。
 綱の長男が竹内明太郎。五男の茂は吉田健三の養子となり、後の総理大臣・吉田茂である。よって、竹内明太郎と吉田茂は兄弟。

<高知県人名事典>


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