土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身。父の武内綱は炭鉱や鉱山業で財を成した人物(谷中霊園)。弟の茂は吉田家に養子となり後の首相の吉田茂。1873(M6)父の大蔵省勤務とともに上京して東京同文社や仏学塾で英・仏語や自由民権思想を学ぶ。やがて自由党に入って東京絵入新聞を刊行。
1886 父から佐賀県の芳谷(よしのたに)炭坑の経営を任せられ、1894 竹内鉱業を設立。茨城・福島・北海道など全国各地で炭坑や鉱山の開発を行いその経営にあたる。
度々欧米視察して工業の実態を研究。1900(M33)パリ万博視察のために渡欧し、当地の先進技術に圧倒される。この体験が竹内を工業立国へと駆り立てることとなった。帰国後、すぐさま欧米の最新技術を導入。電気分解精錬装置などを積極的に取り入れた。
工業立国を目指すためには人材育成も大事だと、1902頃から青年技術者を欧米留学させたり、自分で設立予定の工科大学の教授陣の養成を始めた。その頃、早稲田大学でも理工学部の新設を考えていたが、教授陣の確保の最大の難点があり、それを知った明太郎は、養成していた学者をそっくり早稲田に提供、その給料を数年間も負担した。こうして'09 早稲田の理工科本科の始業式が行われている。大隈重信から「無名の英雄」と称えられた。その後、'12 郷里の高知工業学校創立にも携わっている。このように工業教育と産業教育の振興に大きな貢献をした。
'09 に九州に唐津鉄工所、'17(T6)に石川県小松市の遊泉寺銅山に鉱山用機械を製作する附属施設として、竹内工業株式会社小松鉄工所を開設した。'21 小松鉄工所を竹内鉱業から分離独立し、株式会社小松製作所設立。呼称「コマツ」の誕生である。他の業者よりも良いものを安く作ること、輸入に頼っている機械を国産化し、さらにそれを輸出すること。世界を見据えた高い理想を掲げた。
この間、'15.3.25(T4)第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で高知県郡部より出馬し初当選。'17、'20 と連続当選し3期務めた。政治活動としては郷里の高知県への鉄道の普及に尽力した。
なお、'13.10(T2) 橋本増治郎(20-1-36)が日本初の国産自動車製造に成功した際に、支援者であった田健治郎(2-1-6-6)の「D」、青山禄郎「A」、竹内明太郎「T」の頭文字を取り「DAT」。「ダット号」と名付けられた。享年68歳。
<コンサイス日本人名事典> <近代日本の創業者100人など>
*墓石は和型「竹内家累代之墓」。左面が墓誌となっており、竹内明太郎から刻みが始まる。妻は亀井(S34.3.30歿:郷里の豪農の山本賢一郎の娘)。他に、光江、菊枝、春雄、強一郎が刻む。強一郎は長男で電気工学者。裏面は明太郎の孫で強一郎の長男の地理学者の竹内啓一と啓一の妻の晴子が刻む。なおTBSテレビ報道局長、ニュースキャスターの竹内明(めい)は曾孫にあたる。
竹内 綱 たけうち つな
1839.12.26(天保10)〜 1922.1.9(大正11)
谷中霊園甲8号14側
父は梅仙吉管。代々伊賀家の重臣。通称は万次郎。号は武陵。
戊辰戦争に参加。西南戦争のクーデターに失敗し禁固1年。自由党結成に参画。板垣退助が岐阜で刺された時に傷を調べて処置をした。
1890(M23)衆議院議員。炭鉱や鉱山業にも従事して巨万の富を築いた実業家でもある。享年84歳。
綱の長男が竹内明太郎。五男の茂は吉田健三の養子となり、後の総理大臣・吉田茂である。よって、竹内明太郎と吉田茂は兄弟。
第225回 小松製作所創業者 コマツ KOMATSU 工業立国日本の尽力者 竹内明太郎 お墓ツアー
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