愛知県額田郡柱村(岡崎市)出身。橋本斧吉・くらの次男として生まれる。兄の橋本松次郎は岡崎村村長を務めた。
1895(M28)東京高等工業学校工芸部機械科卒業。1896名古屋第三師団工兵第三大隊へ入隊。1899満期除隊し、翌年より住友工業へ入社し新居浜住友工業所機械課勤務した。念願であった渡米に関して恩師の手島精一に相談をし、1902.2.17農商務省海外実業練習生となり、4月に渡米した。ニューヨーク州オーボン市の蒸気機関製造工場、マッキントッシュ社で働く。高い製造技術をベースに、互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった米国自動車産業を肌で感じ、またキャデラックやリンカーンの生みの親である自動車技術の大家であるヘンリー・リーランドに面会する機会も得た。
'05.6日露戦争応召で帰国、留守第三師団附任官、東京砲兵工廠技術将校として機関銃の改良を行い軍事功労章を受ける。9月召集解除後、合資会社越中島鉄工場技師長になるも、経営不振で九州炭礦汽船株式会社に買収され、'07.12同社の技師となり、崎戸炭鉱所長として2鉱を着炭させる。'08.10森本とゑと結婚。
この時、九州炭礦汽船株式会社社長の田健治郎(2-1-6-6)と同社役員の竹内明太郎(6-1-12-11) との出会いが、橋本の自動車進出の転機となる。橋本の実力を認めた2人は、橋本の自動車への夢の後ろ盾となる。同郷同級に友である逓信省技師の青山禄郎も援助に加わる。'11.7.1(M44)東京府渋谷村麻布広尾にて日本最初の自動車製造メーカー「快進社自働車工場」を創業した。
創業当初は自動車修理と輸入車の組立販売をしていたが、'13.10(T2)日本初の国産自動車ダット号製造に成功。翌年、東京大正博覧会に「ダット DAT」水冷V型2気筒15馬力乗用車を出品し銅牌を受賞。ダットの名称は快進社設立の恩人である田健治郎,青山禄郎,竹内明太郎の頭文字を取り〈DAT(ダツト)〉号と名づけられた。
'16.4工業視察のため再度渡米。'18株式会社快進社取締役社長に就任。'22平和博覧会には「ダット41型」直列L型4気筒15.8馬力の乗用車及び改造自動貨車を出品し金牌を獲得。'23豊島園から目白の間の乗合自動車営業を始める('26都営に吸収)。
自動貨車は'18(T7)に制定された「軍用保護自動補助法」に合わせたもので、自社技術に自信を得た橋本は、長崎村に敷地6000坪の大工場を建設し本格的な国産自動車製造を開始した。しかし快進社が米式のインチで製造を行っていたため、陸軍規格のメートル仕様に合わない等、軍用保護自動車採用は'24(T13)までのびた。その間の不況、関東大震災、フォード社の日本進出などがあり厳しい状況であり、'25快進社を解散。合資会社ダット自動車商会に変更し組織を縮小、代表社員となる。'26大阪の実用自動車製造株式会社と合併し、ダット自動車製造株式会社と改称、専務取締役となる。合併した実用自動車製造株式会社は米人技師のウィリアム・R・ゴーハム(24-1-11)設計のゴーハム式(ゴルハム式)三輪車製造のために設立された会社である('19)。拠点を大阪に移し、ダット51型、61型、71型軍用トラックの開発製造に関わる。'30.3(S5)東京小石川区白山下に営業所を設け団体タクシーを開始。'31.6ダット自動車製造株式会社を辞職し、経営権を鮎川義介(10-1-7-1)が社長を務めていた戸畑鋳物('33.12.26ダットサンの製造のために自動車製造株式会社創立、'34.6.1日産自動車株式会社に改称)に譲り東京に戻った。
橋本が去った後は、後藤敬義らがリラー号のシャシーをベースに、エンジンその他はダット号の部品や経験を活かし、水冷直列4気筒、750cc、4人乗りの小型乗用車の試作を開始。それは内務省が小型自動車の規格改正を行うとの情報があったからだったが、規格が4サイクル500cc以下、2サイクル300cc以下、車体寸法は全長2.8m以下、全幅1.2m以下で一人乗りが条件とされたため、急遽495ccに変更して試作車を完成させた。これが戦前の国産自動車の代名詞ともなったダットサンにつながる。'32ダットサン販売開始。販売時に「ダットサン DAT SUN(太陽)」の名称となるが、試作車は橋本が作った国産自動車「ダット」号の息子、「ダットソン DAT SON」と呼ばれていた。
'33.5東京に戻った橋本は東京目白に武蔵野モーター研究所を開設。自動車の発動機などの研究を続けていたが逝去。享年68歳。没後、'56(S31)岡崎市名誉市民。2002(H14)日本自動車殿堂。橋本増治郎顕彰会が編纂した『橋本増治郎傳』(1957,1995)がある。また、'70NHK銀河ドラマ『一号車よ、走れ!』は橋本増治郎をモデルにしたドラマで、快進社を創立し国産自動車の製造に人生を賭けた先駆者の苦悩と情熱に妻の愛情を絡めて描いた一代記ドラマである。
<日本自動車殿堂者略歴> <日産自動車のあゆみ> <講談社日本人名大辞典など>
*墓石は和型前面に「香徳院釋徹到居士」と刻み、その右側に「昭和十六年十月二十六日殉職」、左側に「於大分縣西国東郡呉崎町北方海上」と刻む。左面「海軍大尉 正七位 勲六等 橋本進次墓」とあり、その左側に「海軍中佐 猪口力平 書」台座左面に飛行機をかたどった彫に「2577-2601」と刻む。墓石にはそれ以外の刻みはなく、墓所には墓誌もない。なお入口入ってすぐにある灯篭には「意志強固」とあり、左側に「昭和十六年一月一日 進次」と刻む。加えて、墓石の書を記した猪口力平は、最終階級は海軍大佐で、神風特別攻撃隊の命名者として著名な軍人。
*妻の橋本とゑ(M23.6生) 山形県出身。森本秀敦の二女。増治郎と とゑ の間には4男3女を儲けている。長男は橋本斧太郎(T5.5生)横浜工卒業後、高田商会社員。戦後は高速度車輛などの技師として活躍。斧太郎の妻のヒデ(T5.5生)は山形県出身で高橋徳太郎の孫。次男は進次(T6.12生)、長女は明(T10.11生)、三男は正十三(T13.9生)、四男は豊島(S2.7生)、三女は千春(S6.11生)。
*橋本増治郎の次男の橋本進次(はしもと しんじ:1917.12-1941.10.23)は海軍軍人。府立九中を経て、1939.7.25 海軍兵学校67期を卒業し少尉候補生となる。1940.5.1 少尉に任官。1941.10.15 中尉に昇進し、飛行機パイロットを目指し宇佐航空隊飛行学生になる。航空母艦翔鶴・瑞鶴航空隊の慣熟訓練を行っていた、同.10.23 大分県西国東郡呉崎町北方海上にて航空事故により殉職。正7位 勲6等。享年23歳。一階級特進(戦争直前の戦意高揚のためと推測する)し最終階級は海軍大尉。なお宇佐航空隊で訓練を共にした仲間たちは、進次が亡くなった翌月の11月19日ハワイ作戦のため出撃、12月8日 真珠湾攻撃を行い戦果を挙げ、同.12.28 帰還している。
*生家の墓は岡崎市針崎町の勝鬘寺であり、そちらにも分骨されている。
※ここの墓所周辺一帯に建つ墓は、日中戦争や太平洋戦争で命を落とした兵士をきっかけに建立された墓石がほとんどである。よって、墓石も「〇〇家」ではなく、亡くなった兵士の個人墓として建つ墓が多い。戦後、遺族が眠る番になった際に、新たに墓所内に「〇〇家之墓」を建立、もしくは個人名が刻む墓石の裏面など空いている面に「〇〇家之墓」と新たに刻み使用している墓もあるが、そのままのケースも多く散見する。橋本増治郎は、息子の進次が亡くなった二年三カ月後の昭和十九年一月に亡くなっており、太平洋戦争真っ只中、物資不足や墓石を新調する世情でもなかったため、そのまま埋葬されたのだと推測する。
第226回 日本初の国産自動車 ダット号 DAT 快進社 橋本増治郎 お墓ツアー
|