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William,R. Gorham

ウィリアム・R・ゴーハム

William,R. Gorham

1888(明治21)〜 1949.10.24(昭和24)

大正・昭和期の機械技術者

埋葬場所: 24区 1種 11側

 アメリカ合衆国サンフランシスコ近隣出身。 航空郵便システムを展開し飛行機製造会社を設立するのを目的とし、自分の技術を紹介し使用するために1918(T7)来日。 エンジン、飛行機、自動車、電話交換機、高速タレット旋盤などを設計、紹介した。また単発双葉飛行機を持ち込み、日本軍に売った。 後年キャノンのコンサルタントとなり、より効率的な生産システムの開発に尽力。 更に、国産精機(後の日立精機)のコンサルタントも務め、工作機械の設計にも携わった。40年代始め、国際情勢が緊迫し始め、日本政府は外国人の追放を始めた。 ゴーハムは悩んだ末、41.5.26に日本に帰化した。日本名を「合波武克人(ゴーハム・カツンド)」と名乗った。
 息子のDon C. Gorhamは帝国大学を41.3に卒業し、大学院で日本文学の研究を続けたいと思ったが、両親の希望によりアメリカに戻り、文学の博士号を取得、アメリカにいて日米の関係を改善するような仕事に就くよう命じた。 当時の外人に対する反感、治安警察(特高)などの状況を考えると、ゴーハム氏の決断がいかに悲壮なものであり、いかに日本を愛していたかということが分かる。 戦後、ゴーハムは日産自動車の役員となり、工業の分野で意欲を燃やし、会社のみならず日本復興の工業化や経済の発展に重要な中枢となり、後の高度成長期の先駆者的存在であった。 志し半ばの49病により没す。グランプリ出版から「日本人になったアメリカ人技師―ウィリアム・ゴーハム伝」等も出ている。

<「多磨霊園に眠る著名人たち」HP小松さん提供>


墓所

*墓所には二基。右側が自然石に「ウィリアム・アール・ゴーハム / ヘーゼル・エッチ・ゴーハム」とカタカナで刻み、下に母国語と生没年が刻む。左側は洋型「斎藤家」。双方の墓石の間に墓誌が建つ。

*ウィリアムの妻はヘーゼル。1911.12(M44)グラマースクールの同級生であった。旧姓はホック。1918(T7)夫と来日し、後に夫と共に日本に帰化。太平洋戦争中も日本に留まった。 なお、2人の息子は米国軍人として日本と戦うことになったという。著書に『Japanese and Oriental portery』。


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