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たかはし まさとも

高橋政知

たかはし まさとも

1913.9.4(大正3)〜 2000.1.31(平成12)

昭和期の実業家(オリエンタルランド)
・東京ディズニーランド生みの親

埋葬場所: 6区 1種 8側 12番

 福島県福島市出身。旧姓太田。代々庄内藩下級武士の家系。父は福島県知事、警視総監、台湾総督などを務めた内務官僚の太田政弘、政弘の後妻のタミエとの次男として生まれる。 当時、政弘が福島県知事をしていたこともあり、名前の一字の「政」と、知事の「知」をとって、“政知”と名づけられた。
 旧制山形高校を経て、1939(S14)東京帝国大学法学部を卒業。大河内正敏が経営する理研重工業に入社した。翌年、富士製紙専務で資産家の高橋貞三郎(同墓)の一人娘の弘子(同墓)と見合い結婚し、婿養子となり、高橋姓となる。 戦争中は上海のフランス租界(外国人居留地)に暮らしていたが、召集令状を受けたため、ラバウルへ送り込まれ、戦後はオーストラリア軍の捕虜となるも、無傷で生還した。 日本石油の特約店の富士石油販売の役員となり、そこで、三井不動産の江戸英雄と知り合った。1960(S35)朝日土地、京成電鉄、三井不動産の持ち株会社としてオリエンタルランドが設立。 この会社は、千葉県浦安沖を埋め立て、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として設立した組織である。社長に川崎千春が就任。当時、三井不動産の社長を務めていた江戸から「君のオツムはあまり良い方とは思われないが、酒は強い。 だから、君に頼むのだ」と、'61浦安漁民との漁業補償交渉を目的として、オリエンタルランドに専務として入社。この時の社員は三名であった。
 東京ディズニーランドの建設のため、千葉県浦安市沖の漁業権放棄に向けた補償交渉などを担当し、直接漁民の家を訪ね、一つひとつ交渉をまとめていき、漁民たちを納得させて漁業権放棄を実現させた。 また、当時の千葉県知事の友納武人への説得、資金繰り交渉、本家ディズニー社との交渉にあたった。その間、オリエンタルランドの株を4%保有していた藤生実太郎が、贈収賄事件を起こし、その影響で一時的に実体がない会社となったが、高橋が藤生を追放し、再出発した経緯もある。 '78オイルショックのあおりを受けた京成電鉄の再建のため、社長の川崎が出戻るために退任し、後任として、オリエンタルランド二代目社長に就任。社長に就任後も、'79ディズニー社との権利関係や著作権交渉などの厳しい要求を乗り越え契約締結。 その他にも、ディズニーランド建設工事、パーク内施設の協力スポンサー誘致活動など、自らリーダーシップを発揮し着々と執り行い、'83.4.15米国以外で初のディズニーランドとなる「東京ディズニーランド」の開園にこぎつけた。
 開園後、入園客が伸びている状況であっても、数々のアトラクションやパレード、レストランなどを加え、「永遠に完成しない場所」というウォルト・ディズニーのコンセプトを持ち続け発展させていった。 '88妻の弘子が体調を患わしたのをきっかけに社長職から退き会長となる。会長となっても、「東京ディズニーリゾート」の形成、「第2パーク構想」の発表(後のディズニー・シー)など尽力した。 '92(H4)高橋の後継した森光明社長の急死、妻の高橋弘子の逝去とショックが続いたが、東京ディズニーリゾート計画実現に全精力を傾けた。'95相談役。2000心不全のため東京都港区の病院で死去、享年86歳。 故人の遺志で、葬儀は近親者のみで実施され、後日「お別れの会」が開かれた。ディズニー・シーの開園をまたずして亡くなられたのは残念である。 なお、没した翌年の2001年9月4日、高橋の誕生日に、世界初「海」をテーマとした東京ディズニーシー、ディズニーテーマパーク、東京ディズニーシーホテルミラコスタがそろってオープンした。

<「私の履歴書」高橋政知>
<訃報記事など>


*墓石は正面「倶会一処」と刻み、裏面「平成十九年七月吉日 山田守 高橋宏子 吉田淳子 建之」と刻む。墓石左側に高橋政知とカードン・ウォーカー ディズニー社社長との東京ディズニーランド開園のテープカット(1983)の写真墓誌碑が建つ。右側に墓誌も建つ。高橋家のほかに山田家と吉田家の刻みもある。高橋家には「先祖代々之諸霊位」の刻みの下に、高橋政知の戒名「光照院釋知顕」が刻み、その下に後妻の宏子の戒名の恵璋院釋尼宏智(ご存命)の刻みと「南無阿弥陀仏」が刻む。存命の方々含め新しく埋葬された方やこれから眠られる予定の方々の名前や戒名が刻む。

墓所(2020年) 写真墓誌碑(2020年)

*2007(H17)より現在の配置となっているが、それ以前はディズニーランド開園の写真墓誌碑は以前までは道沿い左側に建っており、墓石の両サイドは灯篭が建っていた(下記の写真のような配置)。「倶会一処」と刻む墓石も新しく変更された。当時は上台があり、墓石左面が墓誌となり貞三郎ら高橋家代々が刻まれていた。新しい墓石にはそれらの刻みは刻まれておらず、代わりに墓誌が設置されたが、墓誌には政知の前妻含む高橋家の人物たちは「先祖代々之諸霊位」の刻みにまとめられたようだ。なお、ディズニーランド開園の写真墓誌碑は高橋政知が亡くなった2000(H12)に建ったが、それ以前は女性の銅像が建っていた(詳細不明:筆者の記憶)。

墓所 写真墓誌碑 たかはし まさとも

*政知は内務官僚の太田政弘・タミエ夫妻の次男として生まれ、大学卒業後に理研重工業に入社。入社翌年、当時、富士製紙の専務であった高橋貞三郎の一人娘の弘子と見合いの話がもたれ、'40(S15)結婚し、婿養子となり、太田から高橋姓となる。
 かなりの資産家であった高橋貞三郎には数多くの見合いの話が持ち込まれる中、弘子が選んだのが政知であった。政知の父の太田政弘も原敬に見いだされ警視総監や台湾総督に抜擢された人物であったため、息子を政治家の娘と結婚させたいと考えていたが、親の言いなりになりたくなかった政知は、太田家に持ち込まれた十数枚の見合い写真の中から一番の美女を選んだ。それが弘子であった。
 政知と弘子は結婚後、上海のフランス租界で暮らしていたが、赤紙によりラバウル入りし、戦後は日本精粉の子会社三興精粉に勤め、三井不動産を経て、'60オリエンタルランド設立メンバーとなり、東京ディズニーランド構想に着手していくことになる。'79.4.30ディズニー社と基本契約の取り交わしに成功し、'83開園。'92.1(H4)弘子が亡くなる。三回忌が過ぎた、'94政知の実兄の政明の親友であった内閣官房副長官を務めた石岡実ご夫妻の媒酌で、81歳にして宏子と再婚した。

*墓所左隣りは徳富蘇峰(6-1-8-13)の墓所である。

*実父である太田政弘の兄妹である綾女(あやめ)の夫は海軍中将の岡崎貞伍(20-1-21)であり叔父にあたる。貞伍の子である政治家の岡崎英城(20-1-21)は従兄弟にあたる。

*実の兄の太田政明は内務省官僚。姉(長女)の千枝は内務省官僚の横山正に嫁いだ。姉(次女)の道子は内務・拓務・台湾総督府官僚を務めた島田昌勢(23-1-14)に嫁いだ。



第12回 東京ディズニーランド生みの親 高橋政知のお墓ツアー


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