福島県福島市出身。旧姓太田。代々庄内藩下級武士の家系。父は福島県知事、警視総監、台湾総督などを務めた内務官僚の太田政弘、政弘の後妻のタミエとの次男として生まれる。
当時、政弘が福島県知事をしていたこともあり、名前の一字の「政」と、知事の「知」をとって、“政知”と名づけられた。
旧制山形高校を経て、1939(S14)東京帝国大学法学部を卒業。大河内正敏が経営する理研重工業に入社した。翌年、富士製紙専務で資産家の高橋貞三郎(同墓)の一人娘の弘子(同墓)と見合い結婚し、婿養子となり、高橋姓となる。
戦争中は上海のフランス租界(外国人居留地)に暮らしていたが、召集令状を受けたため、ラバウルへ送り込まれ、戦後はオーストラリア軍の捕虜となるも、無傷で生還した。
日本石油の特約店の富士石油販売の役員となり、そこで、三井不動産の江戸英雄と知り合った。1960(S35)朝日土地、京成電鉄、三井不動産の持ち株会社としてオリエンタルランドが設立。
この会社は、千葉県浦安沖を埋め立て、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として設立した組織である。社長に川崎千春が就任。当時、三井不動産の社長を務めていた江戸から「君のオツムはあまり良い方とは思われないが、酒は強い。
だから、君に頼むのだ」と、'61浦安漁民との漁業補償交渉を目的として、オリエンタルランドに専務として入社。この時の社員は三名であった。
東京ディズニーランドの建設のため、千葉県浦安市沖の漁業権放棄に向けた補償交渉などを担当し、直接漁民の家を訪ね、一つひとつ交渉をまとめていき、漁民たちを納得させて漁業権放棄を実現させた。
また、当時の千葉県知事の友納武人への説得、資金繰り交渉、本家ディズニー社との交渉にあたった。その間、オリエンタルランドの株を4%保有していた藤生実太郎が、贈収賄事件を起こし、その影響で一時的に実体がない会社となったが、高橋が藤生を追放し、再出発した経緯もある。
'78オイルショックのあおりを受けた京成電鉄の再建のため、社長の川崎が出戻るために退任し、後任として、オリエンタルランド二代目社長に就任。社長に就任後も、'79ディズニー社との権利関係や著作権交渉などの厳しい要求を乗り越え契約締結。
その他にも、ディズニーランド建設工事、パーク内施設の協力スポンサー誘致活動など、自らリーダーシップを発揮し着々と執り行い、'83.4.15米国以外で初のディズニーランドとなる「東京ディズニーランド」の開園にこぎつけた。
開園後、入園客が伸びている状況であっても、数々のアトラクションやパレード、レストランなどを加え、「永遠に完成しない場所」というウォルト・ディズニーのコンセプトを持ち続け発展させていった。
'88妻の弘子が体調を患わしたのをきっかけに社長職から退き会長となる。会長となっても、「東京ディズニーリゾート」の形成、「第2パーク構想」の発表(後のディズニー・シー)など尽力した。
'92(H4)高橋の後継した森光明社長の急死、妻の高橋弘子の逝去とショックが続いたが、東京ディズニーリゾート計画実現に全精力を傾けた。'95相談役。2000心不全のため東京都港区の病院で死去、享年86歳。
故人の遺志で、葬儀は近親者のみで実施され、後日「お別れの会」が開かれた。ディズニー・シーの開園をまたずして亡くなられたのは残念である。
なお、没した翌年の2001年9月4日、高橋の誕生日に、世界初「海」をテーマとした東京ディズニーシー、ディズニーテーマパーク、東京ディズニーシーホテルミラコスタがそろってオープンした。