*墓石は正面「倶会一処」と刻み、左面に貞三郎ら高橋家の俗名と戒名が刻む。墓石左側に高橋政知とカードン・ウォーカー ディズニー社社長との東京ディズニーランド開園のテープカット(1983)の写真墓誌碑が建つ。右側に墓誌も建つ。右側の墓誌は高橋政知が後妻を娶ったことで、代々の高橋家が刻む墓石とは分けて、また高橋家のほかに、山田家と吉田家の刻みもあるが、存命の方々含め新しく埋葬された方やこれから眠られる予定の方々の名前や戒名が刻む。高橋家には「先祖代々之諸霊位」とあり、政知の戒名の光照院釋知顕、後妻の宏子の戒名の恵璋院釋尼宏智(ご存命)、南無阿弥陀仏のみ刻む。
*ディズニーランド開園の写真墓誌碑は以前までは道沿い左側に建っており、墓石右側の墓誌も建っていなかった。墓石の両サイドは灯篭が建っていた。またテープカット墓誌碑が建つ前(2000以前)はこの墓所には女性の銅像が建っていた。
*政知は内務官僚の太田政弘・タミエ夫妻の次男として生まれ、大学卒業後に理研重工業に入社。入社翌年、当時、富士製紙の専務であった高橋貞三郎の一人娘の弘子と見合いの話がもたれ、'40(S15)結婚し、婿養子となり、太田から高橋姓となる。
かなりの資産家であった高橋貞三郎には数多くの見合いの話が持ち込まれる中、弘子が選んだのが政知であった。政知の父の太田政弘も原敬に見いだされ警視総監や台湾総督に抜擢された人物であったため、息子を政治家の娘と結婚させたいと考えていたが、親の言いなりになりたくなかった政知は、太田家に持ち込まれた十数枚の見合い写真の中から一番の美女を選んだ。それが弘子であった。
政知と弘子は結婚後、上海のフランス租界で暮らしていたが、赤紙によりラバウル入りし、戦後は日本精粉の子会社三興精粉に勤め、三井不動産を経て、'60オリエンタルランド設立メンバーとなり、東京ディズニーランド構想に着手していくことになる。'79.4.30ディズニー社と基本契約の取り交わしに成功し、'83開園。'92.1(H4)弘子が亡くなる。三回忌が過ぎた、'94政知の実兄の政明の親友であった内閣官房副長官を務めた石岡実ご夫妻の媒酌で、宏子と再婚した。