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たい ようこ

田井洋子

たい ようこ

1911.8.9(明治44)〜 2008.3.13(平成20)

昭和・平成期の脚本家

埋葬場所: 4区 1種 24側〔丸茂家〕

 東京出身。旧姓は田井。本名は丸茂ふじ子。夫は考古学者の丸茂武重(同墓)。娘も脚本家の綾部伴子(同墓)。兄はジャーナリスト・コラムニストの田井真孫。
 東京府立第三高等女学校卒業。その後、薬剤師を目指して薬学専門学校に進学したが、学内で大学への昇格運動で揺れて休校状態であったため、進路変更をし、タイピストになった。タイピストとして10年間官庁に勤務した。
 1929(S4)詩人の河井酔茗に入門し師事したが、詩が書けなかったことから河井に勧められ、岡本綺堂に師事して劇作を始める。綺堂主宰の「舞台」などに作品を発表した。河井が亡くなる(1965)まで河井のもとに通い続け学んだ。岡本綺堂の高弟の劇作家の額田六福(20-1-12)や小山内薫の妹の劇作家の岡田八千代と親交を深めた。
 '48 NHK懸賞放送劇『魚紋』が1位入選しデビュー。以降、ラジオ、テレビ、舞台の脚本家として活躍。代表作にラジオ『最上川』、テレビ『恋文』『パパと歩こう』『パパの育児手帳』『香華』『裁きの家』『鬼のいぬ間に』『いつか青空』『青春』『雪燃え』『ただいま11人』『嫁ぐ日まで』『花の番地』『忠臣蔵・女たち・愛』などがある。
 著書も多数あり、『魚と貝の四季 味覚の話題』(1969)、『田井洋子放送作品選集』(1973)、『ドラマをつくる 発想からシナリオまで』(1980)、『白椿幻想 ラジオドラマ集』(1984)、『女のいろは坂』(1985)、『水のある砂漠 装いの街・ハラジュク』(1986)、『風色のタンゴ』(1987)、『ぬくもりの贈り物』(1989)などを刊行。『遠き色』などの句集もある。
 日本放送作家協会理事長、著作権委員長。'79 紫綬褒章。'85 勲4等宝冠章を受章。'88 丸茂武重と田井洋子夫妻を囲む交流会「はなみち会」の有志による「はなみち楽画喜会」が発足('91 会の名を「画柳会」と改称)。享年96歳。

<講談社日本人名大辞典>
<脚本家の横顔 田井洋子 など>


墓所

*墓石は和型「丸茂家之墓」、裏面「昭和三十六年二月 丸茂武重」と刻む。墓石の右側に並んで「矢野百合子太郎女之供養塔」、左面「天に任せよ 地にすがれよ」、右面「生きても 死にても 天と地とは わが住みか」、裏面「丸茂美葉・太郎之父方祖母 昭和二十三年三月十五日歿 平成十年 五十年祭に丸茂千恵子 建之」。

*墓所左に墓誌が建つ。丸茂武重から刻みが始まり、戒名は馨徳院恩訓式覚居士。没年月日と行年、「文学博士」と刻む。「明治四十五年 東京にて出生 國学院大学幼稚園教員養成所(現 幼児教育専門学校)所長 昭和四十四年より 國学院大学文学部史学科教授」と簡略歴も刻む。丸茂武重の横に並ぶようにして娘で本名の「丸茂智恵子」と「ペンネーム 綾部伴子」、生没年月日、行年が刻み、脚本家として活躍「ありがとう」と刻む。出生後6日で亡くなった丸茂克重(T6.4.23-4.29)。丸茂武重の妻で本名の「丸茂ふぢ子」とペンネーム「劇作家 田井洋子」、没年月日、「日本放送作家協会理事長 紫綬褒章 勲四等宝冠章受章」と刻む。



第504回 親子で脚本家 夫は考古学者 白椿幻想
田井洋子 丸茂武重 綾部伴子 お墓ツアー


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