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すえつぐ のぶまさ

末次信正

すえつぐ のぶまさ

1880.6.25(明治13)〜 1944.12.29(昭和19)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(大将)、
潜水艦戦法の大家、政治家

埋葬場所: 16区 1種 3側 8番

 山口県出身。旧徳山藩士の末次操九郎の二男として生まれる。1899.12.16(M32)海軍兵学校(27期)卒業。成績は100名中50番だった。1900.2〜1901.7オーストラリアへ回航。 1900「富士」乗組、'01少尉に任官、「済遠」乗組、'02中尉となり、竹敷要港部第3水雷艇隊附、'03第5艇隊附、比叡分隊長心得、'04.1磐城分隊長心得を経て、大尉となり磐城分隊長となる。そのまま2月からの日露戦争に出征し、'05.5.27日本海海戦を戦う。同.12.12高千穂砲術長。
 '07海軍大学校乙種卒業、同年砲術学校卒業し、そのまま砲術学校教官を務めた。この時に「主力艦の主砲は艦の中心線上一列に装備すべし」との創見を発見し、諸外国でも注目される。特に同時期の英国はこれを採用していた。
 '09海軍大学校甲種を優等(恩賜)で卒業(7期)。同期に四竈孝輔(21-1-22-10)がいる。少佐となり、肥前砲術長。'10砲術学校教官、'11常磐砲術長、'12軍令部参謀、海軍大学教官、'14(T3)教育本部員も兼ねる。 同.9.1英国駐在、中佐となる。この時、北海方面を中心に第一次対戦を観戦する。特にジェトランド沖海戦の教訓から艦隊運用のみならず、潜水艦の有用性についても洞察を深めた。
 '16命帰朝。同.9.1軍令部出仕、同.12.1海軍大学教官。'17.12.1第一艦隊参謀を経て '18.9.1連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀、同.12.1大佐となり筑摩艦長に就任。 '19.8.5軍令部作戦課長兼海大教官を歴任した。'21.9.27ワシントン会議次席随員。'22.12.1軍令部作戦部長(心得)を経て、'23.12.1少将に累進し、第一潜水戦隊司令官となる。 '25.12.1軍令部出仕兼海大教官、'26.7.26教育局長に就任。'27.12.1(S2)中将に昇進した。
 ここまでは軍令系統の砲術畑を歩んできたが、潜水艦戦法の大家としても知られていた。特に「末次戦法」とも呼ばれる戦法は、それまでの潜水艦はいったん真下に降下してからしか前進できなかったのに対し、直接45度の方向に降下できるようにしただけに、画期的であった。 また、対抗演習での指揮統裁ぶりは卓越しており、用兵に対する才能は海軍部内の誰もが認めるところであった。
 '28.12.10軍令部次長就任し、ロンドン海軍軍縮条約締結問題に強硬に反対した。末次は加藤寛治軍令部長を全面に押し立てて、海軍の求める三大原則を充たさない条約締結反対をしていたが、この時は政党内閣の全盛期であり、政策論争に敗北して、'30.6.10職を解かれ軍令部出仕扱いとなった。 浜口雄幸民政党内閣や元老宮内側近は、部長の加藤以上に末次を黒幕視して敵視したが、条約賛成派も含め、末次の砲術と潜水艦に対する才は認めるところであり、予備役編入は免れ、同.12.1舞鶴要港部司令官、'31.12.1第二艦隊司令長官の要職に返り咲いた。 以後、政党内閣が崩壊し国際協調体制からの離脱が決定的になる中で、かつてワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約に激しく抵抗した末次は重鎮として海軍部内で尊敬を増すようになった。
 '33.11.15連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官に就任した。フランクリン・ルーズベルト率いる米国が日本への敵対姿勢を強め、我が国もアメリカを仮想敵とするなかで、末次は来るべき日米開戦での艦隊決戦に備えて猛特訓を行った。これにより日本海軍の練度は飛躍的に向上したともいわれる。
 '34.3.30大将に進級。同.11.15横須賀鎮守府司令長官、'35.12.2軍事参議官となった。'37.10.15予備役編入となり、内閣参議、同.12.14第1次近衛内閣組閣にあたり内務大臣として入閣した。 近衛文麿は末次を支援する右翼団体や国粋主義者を取り込み安定した政治基盤を築く意図をもっての抜擢であったが、日中和平を目指したトラウトマン工作の拒絶や、蒋介石を対手とせずという声明を出すよう主張するなど制御できず、対米、対英、対ソ強硬論を唱え、金融の国営化、日独伊三国軍事同盟に賛成姿勢など、宮内、財界、一部の軍部に不評であった。国内政策は内務省土木局に砂防専門部署を設け砂防事業の発展に貢献した。
 '39.1.5大臣辞職後も、同.1.20平沼内閣で再び内閣参議を務めた。同.12東亜建設国民連盟会長、'30.10大政翼賛会中央協力会議議長と、右翼思想の持主として活動。 第3次近衛内閣が退陣した際に、全国治水砂防協会会長であった末次は総理候補との噂が流れたが、昭和天皇や宮内関係者は右翼団体とのつながりを危惧し信任はなかった。代わりに、東條英機が首班に指名された経緯がある。
 教育局長の高木惣吉に東條内閣倒閣に協力することを約束し、嶋田繁太郎を回答不能に問い詰めるなど、現役を離れ七年経っている時期でも戦局に対して優れた見識を見せた。 '44内閣顧問を務める。戦争終結を意図した岡田啓介(9-1-9-3)は、海軍大臣 兼 軍令部総長であった嶋田繁太郎を更迭し末次を、軍令部総長として現役復帰させる提案するなど、末次の手腕に期待する空気があった。しかし、末次の急病により昭和天皇が認めず、軍令面で期待されたその手腕を発揮することなく逝去。享年64歳。従二位 勲一等旭日大綬章 功一級。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国海軍総督総覧>
<連合艦隊司令長官24人の全生涯など>


末次家之墓 墓所

*墓石は二基建つ。右側が「海軍大将末次信正之墓」。左側が「末次家之墓」。末次信正の墓石裏面には生没年月日が刻む。 人名事典には生年月日を6月30日とするものがあったが、ここは墓石に刻む生年月日「6月25日」を採用したい。享年は数え年の65歳と刻む。 左面に「昭和二十六年十一月三十日建之」と刻む。末次家の墓石裏面は墓誌となっている。長男で坊の岬沖海戦で戦死した末次信義には海軍大佐と刻む。


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