東京市日本橋大伝馬町(中央区)出身。東京府立第一中学校を経て、1942.9(S17)東京商科大学(一橋大学)卒業し、日本製鉄に入社した。'50過度経済力集中排除法により、日本製鉄が八幡製鉄、富士製鉄、日鐵汽船、播磨耐火煉瓦の四社に分割された際の分割で八幡製鉄へ移る。その時に移籍した八幡製鉄の初代社長を務めたのが三鬼隆(3-1-15)である。主に営業や原料、米国事務所長、エンジニアリングなど様々な実働部隊を経験。
'64八幡製鉄鋼板販売部長、'70富士製鉄と合併したのち、新日鉄薄板販売部長。'73取締役大阪営業所長、'75米国新日鉄社長、'77新日鉄常務、'81専務、'83副社長を経て、'87.6 第6代 新日鉄社長に就任した。社長在任中はトヨタ自動車重視の方針を開始。プラザ合意後の円高不況打開に向け高炉休止など合理化を進める一方、新日鐵創立20周年事業として紀尾井ホールを建設するなど、社会貢献にも努めた。
'93.6 新日鉄会長、'98取締役相談役。この間、'88及び'93(H4)2度に国際鉄鋼協会会長を務めた。'90〜'94経団連副会長、'94〜'98経団連評議会議長、日本プロジェクト産業協会(JAPIC)会長、その他、如水会理事長等も歴任した。日本鉄鋼連盟名誉会長。
主な受賞に、'79(S54)第1回マルコポーロクラブ賞、'88(S63)と'90(H2)毎日工業技術賞、'90ブラジルからリオ・プランコ勲章、'94英国材料学会からベッセマーゴールドメダル、'95勲1等瑞宝章、'97オーストラリア名誉コンパニオン勲章を受章した。呼吸不全のため逝去。享年80歳。
*墓石は和型「齋藤家之墓」。裏面「昭和二十七年五月建之」。右側に墓誌があり、初代は齋藤恕己。齋藤裕は二代と刻む。戒名は想仁院錦秋鐵裕居士。妻は信枝。
*齋藤裕は第6代 新日鉄会長となったが、多磨霊園に歴代会長は他に二人いる。'70富士製鉄と合併し初代新日鉄会長に就任した永野重雄(20-1-22)〔1970.3-1973.5〕、第5代新日鉄会長に就任した三鬼彰(3-1-15)〔1989.6-1993.6〕。齋藤裕が社長に就任した際に、前任の社長を務めた武田豊が会長に就任するも、'89.6 病で会長を退任することになり、'87より副社長から社長職を飛ばして副会長となっていた三鬼彰が会長職に就いた。なお、三鬼彰の父は八幡製鉄初代社長の三鬼隆である。追記として、'70合併した時に富士製鉄社長の永野が初代会長、八幡製鉄社長の稲山嘉寛が初代社長となり、八幡製鉄の副社長を務めていた藤井丙午(15-1-2)が、八幡製鉄所長を務めていた平井富三郎と共に初代副社長になった。しかし、'73役員人事のお家騒動で、永野会長と対立した藤井は相談役に退き、2代目社長は平井富三郎が就任した。平井は第5代日本サッカー協会会長を務め、キリンカップやトヨタカップの誘致など日本サッカー界に功績も遺した人物である。