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みき たかし

三鬼 隆

みき たかし

1892.1.14(明治25)〜 1952.4.9(昭和27)

昭和期の実業家(日本製鉄・八幡製鉄)

埋葬場所: 3区 1種 15側

 岩手県花巻市出身。岩手軽便鉄道社長で政治家を務めた三鬼鑑太郎の二男(長男は早死)。妹(長女)のきみ子は医学博士で歌人の岡山巌に嫁いだ。弟(三男)誠は岩手県塩釜の海苔問屋の石井佐助の娘のよしの婿養子となり、その娘の泰子が横浜の海苔問屋の出川誠一郎と結婚し生まれた子が、お笑いタレントの出川哲朗(出川哲朗からみて外大伯父にあたる)。弟(五男)の勤は盛岡美術大学教授で鑑太郎没後の生家の跡取りとなった。
 スポーツ万能で特に野球が得意、勉強が苦手で浪人の末、二高に入る。二高では野球部第一期黄金時代の一員。東京帝国大学法学部卒業。1917(T6)田山鉱山(のちの釜石鉱山)に入社。'20田中鉱山釜石鉱業所庶務主任。 '34(S9)製鉄合同後の日本製鉄に移り、'39清津製鉄所所長、'40取締役。次長から、'45日本製鉄八幡製鉄所所長に任ぜられた。'46.5公職追放を受けた渡邊義介(20-1-14-1)に代わり、日本製鉄社長に就任。
 '47経済安定本部顧問。以後、全国鉄鋼復興会議議長、経済復興会議副議長、日本鉄鋼連合会会長、日銀参与、経団連常任理事などを歴任。鉄鋼界の大御所といわれた。
 '50過度経済力集中排除法により、日本製鉄が八幡製鉄、富士製鉄、日鐵汽船、播磨耐火煉瓦の四社に分割されると八幡製鉄の社長となる。直属の部下であった永野重雄(20-1-22)との仲は財界一といわれ、のちに八幡と富士が合併して新日本製鉄になる基礎を築いた。経団連次期会長を嘱望されていたが、'52日航機〈もく星号〉大島墜落事故で遭難死した。享年60歳。なお、八幡製鉄社長在任中の死去であり後任の社長は、公職追放が解除された渡邊義介が再任する形となった。同飛行機には活動弁士の大辻司郎(20-1-20-1)も同乗しており共に亡くなっている。

<コンサイス日本人名事典>
<20世紀日本人名事典など>


墓所

*正面「三鬼隆 / 室 照代 墓」。裏面「昭和二十八年四月建之」。右面「蓮光院法徳日隆大居士 / 誠諦院妙照日解大姉」と両名の戒名と歿年月日、享年が刻む。左面には三鬼隆の略歴が刻む。なお裏面右上には三鬼彰のみ、戒名「蓮峰院法悦日彰大居士」、歿年月日、俗名、行年が刻む。右側に「三鬼家之墓」が建つ。

*父の三鬼鑑太郎(1866.6.9〜1943.4.21)は福島県出身。明治法律学校卒業。岩手県庁から岩手軽便鉄道に移り、のち社長となり、花巻−釜石間の直結、国鉄編入に尽くした人物で、'36衆議院議員も務めた。

*妻は照代。山梨県中巨摩郡源村の素封家であったが、父の善十郎没後、一家は東京本郷に移り、そこの下宿人だったのが三鬼隆。大学時代に二人は結婚した。しかし、照代は病弱で、長男の三鬼彰を儲けるも、29歳の若さで逝去。隆はその後、独身を通した。代わりに身の回りのお世話をしたのが、照代の姉で未亡人となっていた井上みね。釜石時代の部下であった吉田孝一の娘の則子を養女として貰い受けた。隆が航空事故死した時に則子は15歳であったが、4年後、日本航空のスチュワーデスとなった。当時のメディアで則子はスチュワーデスを「女性の立派な職業」と語り、女性の自活のための仕事選択と家族の不幸を混同しなかったことが話題を呼んだ。


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