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わたなべ ぎすけ

渡邊義介

わたなべ ぎすけ

1888.4.12(明治21)〜 1956.1.6(昭和31)

昭和期の実業家(八幡製鉄)

埋葬場所: 20区 1種 14側 1番

 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人を務めた渡邊忠(16-1-8)の二男。兄は彌滿和製作所創業者の渡邊讓吉(16-1-8)。1915(T4)東京帝国大学法科大学経済科卒業し、農商務省に入省。'16(T5)官営八幡製鉄所に派遣され、第一次世界大戦中は鐵鋼原料確保に奔走した。
 経理部倉庫課長、鉱山部製鉄課長、'25商工省鉱山局鉱政課長、'30(S5)欧米視察後、八幡製鉄所に入所。総務部長時には、経済不況下において人員整理を断行。'34(S9)数社合併により日本製鉄株式会社の発足とともに取締役に就任し、八幡製鉄所所長となった。'37日中戦争が勃発し、戦争協力のための労資一体の組織である産業報告会が八幡製鉄所に設立されると、将来を懸念して辞任した。
 '42北支那製鉄の設立とともに社長に就任。さらに鉄鋼統制会理事長として、鉄鋼界をリードした。'45日本製鉄社長および、鉄鋼統制会会長に推挙される。戦後公職を追放されたが、解除後の'52八幡製鉄(現・日本製鉄)社長に就任し、同時に日本鉄鋼連盟会長となった。また経団連副会長も務めた。勲二等旭日章を受章。享年67歳。没翌年'57『渡邊義介回想録』が出版される。社団法人日本鉄鋼協会が毎年、わが国鉄鋼業の進歩発達に卓越した功績のあった会員に授与する、「生産技術賞(渡辺義介賞)」と「技術貢献賞(渡辺義介記念賞)」が設けられている。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


*墓所には二基建つ。正面に和型「渡邊義介墓」、左側に和型「渡邊家之墓」。右側に墓誌が建ち、渡邊義介から刻みが始まる。妻は恭子。子6男。長男の渡邊愼介(T4.6-H8.1.6)は父と同じ鉄鋼の道に進み日興産業会長を務めた。次男の渡邊庸介(T6.2-S18.4.9殉歿)には海軍中尉 従七位勲六等と刻む。三男は渡邊敬介(T8.12- 墓誌に刻みはない)。四男は渡邊正介(T12.7-S47.2.1)。五男は渡邊誠介(T15.7-H20.5.24)。六男は渡邊徳介 (S6-H17.10.22)。

*公職追放を受けたため、八幡製鉄所社長の後任は三鬼隆(3-1-15)が就任したが、公職追放解除後、1952 もく星号墜落事故で三鬼隆が亡くなったため、八幡製鉄所社長に復帰することになった。


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