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わたなべ じょうきち

渡邊讓吉

わたなべ じょうきち

1884.1(明治17)〜 1947.7.7(昭和22)

大正・昭和期の実業家(彌満和)

埋葬場所: 16区 1種 8側

 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人を務めた実業家の渡邊忠(同墓)の長男。弟に八幡製鉄社長を務めた実業家の渡邊義介(20-1-14-1)。1920(T9)家督を相続する。
 1909(M42)東京帝国大学工科大学機械科卒業。1923.11(T12)渋谷に彌滿和製作所の個人店を創業(YAMAWA JAPAN)。社名に個人名を入れるのを嫌い、屋号である「やまわ」を社名にすることを考え、万葉仮名から当て字をし「彌満和」と命名。選んだその漢字は“いよいよ満ち、いよいよ和する”という意味で、“会社が発展するにつれ、人の和が大切である”との願いが込められている。わが国の機械工業の進歩と発展に貢献するという高い理想を創業の精神として掲げる。
 創業以来、ねじ切り切削工具(タップ・ダイス等)・穴あけ工具(センタ穴ドリル等)の製造・販売・輸出業務を行っている。切削工具に特化したエキスパートとして日本の機械工業の進歩と共に技術を重ね発展させる。'37.12 株式組織に改組で株式会社彌満和製作所とし社長に就任。明治電機会社監査役も兼ねた。戦時中は米沢市に工場疎開した。享年63歳。
 戦後、1953 米沢工場を彌満和精機工業株式会社として分離。その後、「確かなねじ」というテーマの下、日本初のタップメーカーとして発展し現在に至る。2021.10(R3) 株式会社彌満和ホールディングス設立。現在(2023)の株式会社彌満和製作所の代表は渡邊芳男。

<YAMAWA沿革・会社概要>
<人事興信録など>


墓所

*墓所には三基並ぶ。真ん中は和型「渡邊忠墓」(裏面:大正十年十一月十九日歿、享年七十九歳)。右は和型「渡邊悦子墓」(裏面:大正十四年九月二日歿、享年七十八歳)。左は和型「渡邊家之墓」、裏面は「昭和十五年二月 渡邊讓吉 建之」。左側に墓誌が建つ。俗名、没年月日、享年が刻む。渡邊讓吉の妻はマヨ(M21.8-S22.10.8)。マヨは神奈川出身。実業家の山口政治の長女。旧姓は山口。長男は渡邊弘(T2.8-H20.1.22)。


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