東京日本橋出身。父は大辻九八、母はナカ(共に同墓)。本名は四郎。甲洋学舎卒業。
父親がやっていた尾張屋という株屋の下働きから、活動弁士の染井三郎に弟子入りし、東京浅草の帝国館で初舞台。
洋画喜劇を得意とする弁士だったが、ぽつりぽつりと語る口調が人気であった。「胸に一物(いちもつ)、手に荷物」「勝手知ったる他人の家」「ハラハラと落つる涙を小脇に抱え」「アノデスネ。ボクデスネ」などの迷文句と奇声で有名になる。
また、「やっちゃうです」「ありがとです」というような「てにをは」を抜くしゃべり方も大辻司郎の発明とされる。
大正時代は、松井翠声・徳川夢声(2-1-7-48)らとともに人気を博し、牛込館・葵館・金春館などに出演。たまたま停電で映画が映らなくなったため、その場つなぎのおしゃべりをしたのが客に喜ばれ、“漫談”という話芸が生まれるきっかけになった。
漫談の名称は、1926(T15)弁士たちの隠し芸大会「ナヤマシ会」で、徳川夢声が大辻の例にならって一人語りをしたさい、大辻が〈語る漫画〉の意で〈漫談〉の語を創始し、名づけたと伝えられ、自分でも漫談宗家と名のった。
以後、寄席などに出演するようになった。「ジャズは悲し」「撮影所悲話」など現代風俗を語るのを得意とした。
'31.8(S6)日本で最初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が封切られるなど、しだいに弁士の出番が少なくなったため大衆演劇への転向をはかり、'33古川ロッパ、徳川夢声らと「笑の大国」を結成する。
この頃から、おかっぱ頭をトレードマークにした。自己のPRについては独特の才能があり、戦後は自分の奇声に保険をかけ話題をふりまいた。
長崎平和博に行く途中、日航機〈もく星号〉が伊豆大島の三原山に衝突して墜落事故死した。享年55歳。
なお、同じ飛行機に搭乗していた八幡製鉄所社長の三鬼隆(3-1-15)も、この事故で亡くなっている。この事故は消息を絶ってから残骸が発見されるまで、情報が錯綜し、「乗客全員無事」などの誤報も流れた。
公演先の予定であった長崎の地方新聞「長崎民友新聞」は事故翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの生還記事が掲載されたが、これは大辻の秘書が乗客全員無事のニュースを知り、気を利かせすぎて新聞社に連絡した捏造であったことが後に発覚している。
<コンサイス日本人名事典> <日本芸能人名事典など>
*墓石は和型「大辻家墓」。右側に墓誌がある。墓誌には父と母と大辻司郎のみしか刻まれていない。俗名と没年月日、行年のみである。
*長男の寿雄は父と同じ名前を受け継ぎ、2代目の大辻司郎(同墓)という芸名で俳優として活躍した。
【日本航空「もく星」号墜落事故】
1952(昭和27)年4月9日午前8時7分頃、羽田発大阪経由福岡行きの日本航空「もく星」号マーチン202型機(N93043)が伊豆大島の三原山御神火茶屋付近に墜落した。
この事故で運航乗務員2名、客室乗務員1名、職員1名、乗客33名(福岡行き26名・大阪行き7名)、計37名全員が死亡した。
当日、情報が錯綜し、一時海上への不時着水や全員救出が報じられるなどしたが、墜落現場は翌朝発見された。
事故機の残骸は直線を描く形で散乱し、遺体の損傷も航空事故としては少なかったことから、事故機は水平飛行に近い状態で、予定された飛行ルートに針路を取って飛行中に山に機体を擦るよう状態で接触したことが明らかになった。事故機は通常は高度6000ftで飛行すべきところ、高度2000ftで飛行し山に接触したことから、この点が事故原因調査の焦点となった。
当時日本の航空界は、第二次世界大戦敗戦により、直接の航空活動を禁止されており、日本航空もその運航は、ノースウエスト航空に委託しており、機材、運航乗務員とも米国人であった。
さらに航空管制に至っても米空軍の管轄にあったため、管制ミスの疑いもあったが、証拠となる交信テープの提供を米軍から受けることが出来ず、真相が明らかにされることはなかった。
運輸省の事故調査会はパイロットミスを濃厚に漂わせる報告書を残し、公式の事故調査を終えた。
第167回 停電の場繋ぎで生まれた「漫談」もく星号墜落 大辻司郎 お墓ツアー 多磨霊園に眠る人気活弁士 その3
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