島根県松江市出身。永野六兄弟の次男。瀬戸内海、広島県呉市沖に浮かぶ下蒲刈島、浄土真宗本願寺派の名刹、弘願寺が実家。
父の法城が寺を継ぐ事を嫌い判事となって中国地方の裁判所を数ヶ所転勤した後、職を辞し広島県広島市で弁護士事務所を開業したため広島で育つ。
第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治経済学科卒業。
1924(T13)貿易会社の浅野物産に入るも10ヶ月で退社し、'25兄の譲を通じて渋沢栄一の子息の正雄の依頼を請け倒産会社の富士製鋼に転じ、支配人兼工場長となって会社を再建した。
'34(S9)製鉄大合同により富士製鉄が日本製鉄に統合され、日本製鉄富士製鋼所長に就任。鐵鋼統制会理事、北海道支部長で終戦。
戦後、'46日本製鉄の常務取締役で復帰。'47片山内閣経済安定本部で和田博雄の下で副長官となったが、GHQの命令で天下り禁止法が執行され、1年半で辞す。
発足当初より経団連の運営委員に携わり、'48日経連常任理事となる。同じ頃、戦前体制一掃政策により日本製鉄が過度経済力集中排除法の指定会社となり、'50日本製鉄から分離した富士製鉄の設立とともに社長に就任。
'56産業計画会議委員に就任。'63日本製鉄連盟会長に就任、'65名誉会長となる。'70八幡製鉄との合併で新日本製鉄を設立し、会長に就任。
'73人事をめぐって藤井丙午(15-1-2)と対立したが、名誉会長となり大きな影響力をもった。
その間、'63日本鉄鋼連盟会長、'65同名誉会長に就任。その後、日本商工会議所会頭、東京商工会議所会頭として、日本財界の雄として重要な地位についた。
また経団連・日経連各顧問、日本生産性本部副会長のほか、欧亜協会・ラテン−アメリカ協会・日豪経済委員会・アジア貿易開発協会・全日本交通安全協会などの各委員長を兼任。
著書に『大法螺(ほら)小法螺』。座右の銘は「不陥孤高 不恐孤独」。正3位 勲1等旭日桐花大綬章。享年83歳。
兄は運輸大臣などを務めた政治家・実業家である永野護。
弟は五洋建設会長を務めた永野俊雄、日本航空会長を務めた伍堂輝雄(7-1-13)、政治家の永野鎮雄、国産のジェットエンジンを開発した航空技術者で石川島播磨重工会長を務めた永野治がいる。
護の子で甥にあたる永野厳雄は広島県知事、同じく甥の永野健は三菱マテリアル会長や日経連会長を務めた人物である。