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にとべ あきとし

新渡戸彰敏

にとべ あきとし

1918.7.22(大正7)〜 1985.8.26(昭和60)

昭和期の英語学者

埋葬場所: 7区 1種 5側 11番

 新渡戸稲造(同墓)の養子となった新渡戸孝夫(よしお 1892-1935 同墓)と養女となった新渡戸こと(琴子 1890-1985 同墓)の長男。本名は新渡戸誠。新渡戸家第45代当主。
 1938(S13)成城高等学校高等科文科甲類を経て、'41.12 東京大学文学部英文学科卒業。終戦直後、'45.9青森県弘前復員監部終戦事務渉外課となり、'46.3米進駐軍弘前地区軍政部通訳兼翻訳係、'47.1米進註軍東京神奈川地区軍政部教育課通訳を務め、'49.2セントラル・モーションピクチュアー・エクスチェーンジ宣伝部、'51.3ゲッツ・ブラザース商会輸入食品部営業課、'54.2永島国際ピー・アール事務所通訳兼翻訳係と、戦後の駐留軍の統治時代では語学を活かして活動した。'56.3国際貿易観光協会会長秘書を務めた後、'62.1英米テレビ映画翻訳・ベストセラーズ商会専務となり、輸出入業務に携わった。
 '64.4早稲田中・高等学校英語講師(〜'65.7)、'64.5アテネ・フランセ英会話講師と語学教育の世界に転身し、'69.4武蔵大学人文学部専任講師となる。'73.4より武蔵大学人文学部教授に就任し、'84.3停年退官となるも、以降も同大学の特任教授を務めた。享年67歳。

<新渡戸彰敏教授記念号など>


墓所
墓誌:表 墓誌:裏

*新渡戸家の墓所は正面「新渡戸稲造之墓」。右に稲造の長男で早死した長男「新渡戸遠益之墓」。左に墓誌がある。新渡戸彰敏は孫と刻み、墓誌には新渡戸誠(彰敏)と刻む。墓誌は稲造、萬里子、遠益、こと、誠の順に刻む。墓誌の裏面は上に「正三位勲一等新渡戸先生墓誌」というタイトルで新渡戸稲造の略歴が刻むプレートがはめられている。下にはその経緯が刻み、それによると、昭和60年十月三日に兄の新渡戸誠(彰敏)の納骨に当たり、祖父の新渡戸稲造の墓より出土したとのことである。昭和八年十二月二日の稲造の遺骨と共に納められたとある。これを泥中に返すのではなく、ここに清拭して墓誌碑の裏面に掲げ、大方の清覧に供せんとすと刻む。これは新渡戸誠(彰敏)の妹の加藤武子の言葉として刻む。

妙法常照院英俊日考信士/YOSHIO NITOBE/河野

*新渡戸家の墓所の入口左手側に和型「妙法常照院英俊日考信士」とローマ字で「YOSHIO NITOBE」と前面に刻み、台座に河野とある。これは新渡戸誠(彰敏)の父で新渡戸稲造の養子となった新渡戸孝夫(旧姓が河野)の墓(右面に「昭和10年十二月十八日 河野孝夫」、裏面に建之者として稲造の妻の新渡戸萬里子の名が刻む)である。新渡戸稲造以降がクリスチャンであったため、あえて別墓を建てたと推測する。


【新渡戸家】
 新渡戸稲造の妻の新渡戸萬里子は旧姓をマリー・エルキントンという米国人で動物愛護運動の先駆者である。二人の間に長男の新渡戸遠益が生まれるが明治25.1.27に生後8日で亡くなってしまう。遠益の名は親友のトーマス・エジソンからである。その後は子に恵まれなかったため養子を二人迎えた。孝夫とこと である。
 稲造の養子の孝夫は稲造の姉の喜佐(1857-1943)の三男。旧姓は河野。ジャパンタイムズ主筆・編集長を務めた。養女のこと は稲造の姉の峯(1845-1916)の子の磯の長女。孝夫とこと の間に長男の誠(彰敏)、武子(1920-)がいる。武子は加藤英倫に嫁いだ。加藤英倫は新渡戸稲造全集の解説や訳などを担当した。余談であるが、加藤英倫が通った成城第二中学校(旧制成城高校)の同級生に大岡昇平(7-2-13-22)、古谷綱武(6-1-11)、坂口安吾、富永次郎、安原喜弘、山口二矢の実父である山口晋平などの同級であり、坂口安吾の恋人とされ多くの文学作品を生むきっかけと なった矢田津世子を安吾に紹介した人物として著名。また京都大学時代に大岡昇平と同じ下宿というのも度々作品に登場する。


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