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にとべ まりこ / Mary Patterson Elkinton Nitobe

新渡戸萬里子 /

メリー・パターソン・エルキントン・新渡戸

にとべ まりこ /
Mary Patterson Elkinton Nitobe

1857(安政4.8.14)〜 1938.9.23(昭和13)

大正・昭和期の教育者、動物愛護運動家

埋葬場所: 7区 1種 5側 11番

 アメリカ合衆国フィラデルフィア州出身。フレンド派(クエーカー教徒)の家に生まれる。新渡戸稲造と結婚後の本名はメリー・パターソン・エルキントン・新渡戸。日本名は新渡戸萬里子。
 1886(M19)フィラデルフィアの富豪モリス家で行われた集会に出席。その集会で新渡戸稲造(同墓)が「日本の事情」という講演をした。とても興味を抱いたためモリス夫人が稲造と引き合わせてくれたのが出会いとなる。その後、稲造はドイツ留学のためアメリカを離れるも、二人の熱心な文通交流は続き、稲造はハレ大学在学中に結婚の意志を固める。稲造はメリーを妻として日本に連れて帰ることを考えて、日本語を覚えてほしいという願いから日本語入門書を送った。メリーは一生懸命日本語を学んだ(稲造が送った本は現存している)。
 稲造が養父の太田時敏にメリーとの結婚の決意の手紙を送ったが、届いた返事は外国人との結婚を止める内容であった。エルキントン家の反応も同様で、両家から二人の結婚は反対された。そこで、1890夏 稲造はフィラデルフィアを再び訪れ、翌年1月まで結婚についてメリーの父母に理解を得るため奔走。二人はクエーカー教徒のモリスの集会で出会い、熱心な信仰によって結ばれたが、当初はクエーカー仲間たちからも反対された。約半年間を経て、ようやくクエーカーの集会において二人の結婚が認められ、1891.1.1(M24)集会堂で結婚式をあげた。式にはメリーの両親は出席しなかった。同.1.12 二人が日本に出発する数日前に、メリーの両親から結婚を許される。
 稲造が札幌農学校教授に就任したため、初来日は札幌で暮らす。翌年、長男誕生。稲造の親友トーマス・エジソンから名前をとり遠益と名づけたが、8日後亡くなる(同墓)。萬里子は体調を崩して一時アメリカへ帰国。稲造も帯同し療養。稲造はその時に世界的なベストセラーとなる『武士道、日本の魂』を執筆。執筆の際にはメリーも助言するなど手伝った(刊行は1900)。
 再び来日。メリーの実家に引き取られて育った孤児の女性から1000ドルの遺産を受ける。そのお金を原資に、古家付き土地を購入し学校として整え、1894 学校に行きたくとも様々な事情で修学出来ない児童、貧しい少年たちのために北海道札幌に遠友夜学校を設立した。校名は、遠い国から届いた遺産を役立てたことと、論語の「朋(友)あり、遠方より来たる。また楽しからずや」にちなんで「遠友」と名づけられた。初代校長に新渡戸稲造が就任。この学校は学問より実行を教育の根本におき、一般教科目はもちろんのこと、特に教育に体育を重視し、他の人への思いやりを持った人間を育てるのが大きな特色であった。学校は社会事業に深い理解を持つ人々の寄付金を中心に運営され、教師は稲造の意志を引き継いだ北海道大学の学生が無給で奉仕した。
 また日本人道会を設立し会長に就任。加えて動物愛護運動の先駆的な役割を果たした。メリーは日本の軍国主義がクエーカー主義と矛盾していることに気づき、日本の教育改革に貢献。稲造と共に日米関係の改善に努め、国際主義を提唱した。'33.10(S8)稲造がカナダで客死。夫没後も日本にとどまり、'34.6 遠友夜学校2代目校長に就任。4年後、心臓病のため軽井沢にて逝去。享年81歳。
 長男没後、子宝に恵まれなかったため養子を二人迎えた。孝夫 と こと(共に同墓)。孝夫は稲造の姉の喜佐の三男で旧姓は河野。こと は稲造の姉の峯の娘の磯の長女。孝夫とこと は後に結婚して生まれたのが誠(彰敏)と武子(共に同墓)である。

<日本女性人名辞典>
<近代日本の先駆者>
<「結婚前に稲造が萬里子に贈った日本語入門書」新渡戸記念館だより 24号 平成13年3月>
<中村祐二様より情報のご提供>


墓所
墓誌:表 墓誌:裏

*新渡戸家の墓所は正面「新渡戸稲造之墓」。右に稲造の長男で早死した長男「新渡戸遠益之墓」。左に墓誌がある。新渡戸彰敏は孫と刻み、墓誌には新渡戸誠(彰敏)と刻む。墓誌は稲造、萬里子、遠益、こと、誠(彰敏)、加藤武子(H29.10.31没・享年97歳)の順に刻む。墓誌の裏面は上に「正三位勲一等新渡戸先生墓誌」というタイトルで新渡戸稲造の略歴が刻むプレートがはめられている。下にはその経緯が刻み、それによると、昭和60年十月三日に兄の新渡戸誠(彰敏)の納骨に当たり、祖父の新渡戸稲造の墓より出土したとのことである。昭和八年十二月二日の稲造の遺骨と共に納められたとある。これを泥中に返すのではなく、ここに清拭して墓誌碑の裏面に掲げ、大方の清覧に供せんとすと刻む。これは新渡戸誠(彰敏)の妹の加藤武子の言葉として刻む。

妙法常照院英俊日考信士/YOSHIO NITOBE/河野

*新渡戸家の墓所の入口左手側に和型「妙法常照院英俊日考信士」とローマ字で「YOSHIO NITOBE」と前面に刻み、台座に河野とある。これは新渡戸誠(彰敏)の父で新渡戸稲造の養子となった新渡戸孝夫(旧姓が河野)の墓(右面に「昭和10年十二月十八日 河野孝夫」、裏面に建之者として稲造の妻の新渡戸萬里子の名が刻む)である。新渡戸孝夫はジャパンタイムズ主筆・編集長を務めた。

*名前の「Mary」は「マリー」「メアリー」「まり子」「万里子」と表記されることもある。新渡戸記念館では「メリー」と紹介しているので「メリー」とした。

*クエーカーとはキリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(フレンド派)に対する一般的な呼称。17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。


【遠友夜学校】
 1894(M27)札幌に私設夜間教育施設「遠友夜学校」がメリーの私財にて開校され、1944(S19)閉校まで50年に渡り、家庭の事情などで勉強がしたくても学校に通えない青少年たちに、男女区別なく無料で開かれた学校である。50年間で千人以上の卒業生を送り出した。
 初代校長は新渡戸稲造。1909.12〜1914(M42-T3)有島武郎(10-1-3-10)が代表に就任。'34.6 稲造没後、メリーが遠友夜学校2代目校長に就任。'39.6 メリー没後に半澤洵が3代目校長に就任し、'44.3 閉校まで在任した。
 戦後、運営母体の財団法人札幌遠友夜学校から市に無償譲渡された土地に、'64.6(S39)札幌市勤労青少年ホームが建設され、遠友夜学校の精神と深い人類愛に満ちた新渡戸夫妻の理想を後世に伝える遠友夜学校記念室が施設内に設置された。'79 新渡戸稲造博士顕彰会により、札幌出身の彫刻家の山内杜夫制作の「新渡戸稲造・萬里子両先生顕彰碑」が前庭に建立された。
 札幌市中央若者活動センターの閉館に伴い、2011.10.4(H23)遠友夜学校記念室は札幌市資料館に移転。3年後、2014.7.6 すべての資料等を北海道大学へ寄贈された。中央若者活動センターの建物解体後は、2015 整備され「新渡戸稲造記念公園」となり、碑は公園の南東端に移設された。

<札幌市「遠友夜学校記念室」「新渡戸稲造萬里子両先生顕彰碑」>



第4回 新渡戸稲造のお墓ツアー


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