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なかやま ただなお

中山忠直

なかやま ただなお

1895(明治28)〜 1957.11.2(昭和32)

大正・昭和期のSF詩家、漢方医学者

埋葬場所: 14区 1種 10側

 早稲田商科大学卒業。大学時代は北叉(4-1-35)や中村進午に師事。卒業後、父の命令で銀座の服部金太郎(6-1-1-10)が創業した服部時計店(後のセイコー)に入社したが、一年で退職。以後、総合雑誌「中外」に2年間程勤め、クロポトキンの著作『田園・工場・仕事場』の翻訳をし、国家社会主義者を自称するも足を洗い、詩人となった。
 詩作は明治末年あたりから始め、'23(T12)新潮社から中山哲というペンネームで詩集を出版した。創刊間もない「文藝春秋」に詩論を展開。また、大正末年には総合雑誌「日本及日本人」、「報知新聞」でも執筆を振るいジャーナリストとしても活動した。
 詩は自然科学への造詣が深く、スケールが大きく斬新な宇宙的SF詩を発表し独自の世界を展開、気宇壮大な向日性とニヒルでアナーキーな側面が混在した特異な詩人として注目された。SF詩集の代表作に『自由の廃墟』(1922)、『火星』(1924)、『地球を弔う』(1939)などがある。
 漢方医学の知識も豊富で、'27(S2)『漢方医学の新研究』を発行。その後、改訂15版を数え昭和初期のベストセラーとなる。他に『漢方医学余談』、『日本に適する衣食住』などを立て続けに出版した。漢方界衰退時期の救世主的な存在となり、これをきっかけに、漢方復興運動の中心的役割を成すことになる。中山皇漢医学研究所を設立。
 一方で、芸術評論、日本画家の豪華画集を自費出版し、当時の軍部から発禁処分となった日本主義者『わが日本学』、さらには、竹内文書や天皇家の起源に触れ、日本人・ユダヤ人同祖論を展開した。
 '42軍部の太いパイプを持っていたこともあり、太平洋戦争勃発後、日本がシンガポール陥落した際に、文民の司政官として任命された。しかし、シンガポールに旅立つ前に脳出血で倒れ、左半身不随で自力歩行が困難となった。 以後、亡くなるまでの15年間、事実上寝たきりの生活を送ることになった。ただし、思考能力と右手は動き、15年間寝床で書き続けた。様々な分野での肩書を持ち、マルチに活動をした。評論家の大宅荘一は「筆のちんどん屋」という名誉ある称号を与えた。享年62歳。

<石川近代文学全集16>
<「昭和のマルチ人間・中山忠直の生涯」油井富雄:
ニュースソース・NewsSource(有料版)>


墓所 詩碑

*墓石正面右に中山家の五輪塔、左に和型「中山家之墓」。両方とも建之者は中山忠直である。墓石と五輪塔の間に墓誌が建つ。墓誌には「中山忠直大人之命」没年月日と行年が刻む。墓所入口には「地球を弔ふ」の詩碑が建つ。

*竹内文書などに関しては、酒井勝軍(16-1-17)のページに詳しい。


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