早稲田商科大学卒業。大学時代は北昤吉(4-1-35)や中村進午に師事。卒業後、父の命令で銀座の服部金太郎(6-1-1-10)が創業した服部時計店(後のセイコー)に入社したが、一年で退職。以後、総合雑誌「中外」に2年間程勤め、クロポトキンの著作『田園・工場・仕事場』の翻訳をし、国家社会主義者を自称するも足を洗い、詩人となった。
詩作は明治末年あたりから始め、'23(T12)新潮社から中山哲というペンネームで詩集を出版した。創刊間もない「文藝春秋」に詩論を展開。また、大正末年には総合雑誌「日本及日本人」、「報知新聞」でも執筆を振るいジャーナリストとしても活動した。
詩は自然科学への造詣が深く、スケールが大きく斬新な宇宙的SF詩を発表し独自の世界を展開、気宇壮大な向日性とニヒルでアナーキーな側面が混在した特異な詩人として注目された。SF詩集の代表作に『自由の廃墟』(1922)、『火星』(1924)、『地球を弔う』(1939)などがある。
漢方医学の知識も豊富で、'27(S2)『漢方医学の新研究』を発行。その後、改訂15版を数え昭和初期のベストセラーとなる。他に『漢方医学余談』、『日本に適する衣食住』などを立て続けに出版した。漢方界衰退時期の救世主的な存在となり、これをきっかけに、漢方復興運動の中心的役割を成すことになる。中山皇漢医学研究所を設立。
一方で、芸術評論、日本画家の豪華画集を自費出版し、当時の軍部から発禁処分となった日本主義者『わが日本学』、さらには、竹内文書や天皇家の起源に触れ、日本人・ユダヤ人同祖論を展開した。
'42軍部の太いパイプを持っていたこともあり、太平洋戦争勃発後、日本がシンガポール陥落した際に、文民の司政官として任命された。しかし、シンガポールに旅立つ前に脳出血で倒れ、左半身不随で自力歩行が困難となった。
以後、亡くなるまでの15年間、事実上寝たきりの生活を送ることになった。ただし、思考能力と右手は動き、15年間寝床で書き続けた。様々な分野での肩書を持ち、マルチに活動をした。評論家の大宅荘一は「筆のちんどん屋」という名誉ある称号を与えた。享年62歳。