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なかやま ただなる

中山忠愛

なかやま ただなる

1866(慶応2)〜 1936.10.9(昭和11)

明治・大正・昭和期の教育者、漢方医学者

埋葬場所: 14区 1種 10側

 石川県金沢出身。別名に中山忠也。郷里で小学校教諭を務める。小学校校長まで務めたが突然退職し、生命保険会社の社員となるも、長男の忠直(同墓)が上京すると、会社を辞めて家族で上京した。一家の生活費と忠直の学費は、自身が発明した弁当箱と改良の飯ひつの行商をして、月40円の収入を得ていたという。 
 1927(S2)息子の忠直が発刊した『漢方医学の新研究』が売れ、一躍漢方界の救世主的な存在となると、息子の忠直と共に先哲の顕彰や漢方医学の講習会を開く研究会を開き、大塚敬節(4-1-41)や昭和天皇の侍医を務める田口健二郎、漢洋医学闘争史の著者の深川晨堂、月刊誌「医道」編集発行者の原田稔甫ら有力な漢方医を訪ね、漢方復興運動の行動をおこした。中山胃腸薬本舗創業し漢方医学者としても活動した。
 漢方医学復興の火付け役となるも、方向性が息子の忠直と共に日本主義者的な行動、竹内文書や天皇家の起源に触れ、日本人・ユダヤ人同祖論を展開するようになっていった。持病の中風が悪化し、東京牛込区若松町の自宅にて逝去。享年70歳。

<漢方の臨床>
<朝日過去帳など>
<「昭和のマルチ人間・中山忠直の生涯」油井富雄:
ニュースソース・NewsSource(有料版)>


墓所 詩碑

*墓石正面右に中山家の五輪塔、左に和型「中山家之墓」。右面に「昭和十一年十月九日 忠愛 / 昭和廿年二月 母 幸」と刻む。墓石と五輪塔の間に墓誌が建つ。墓誌には「中山忠愛道士」没年月日と行年が刻む。長男の中山忠直(中山啓)は漢方医学者であり、SF詩家の顔も持っている。墓所入口には「地球を弔ふ」の詩碑が建つ。

*竹内文書などに関しては、酒井勝軍(16-1-17)のページに詳しい。

*公家・右近衛権中将の中山忠愛(1832-1882)は別人。


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