高知県香美郡田村(南国市:碑には高知市追手筋)出身。医師の大塚恵廸と宮(共に同墓)の次男として生まれる。大塚家は代々医家で、初代は曽祖父の希斎(同墓)、二代は祖父の恭斎(同墓)、三代は父の恵廸、敬節は四代目にあたる。
医師の家庭で生まれ育つが西洋医学が嫌いであり、中学卒業後は医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。だが、全く興味が持てず、熊本県立医学専門学校(熊本大学医学部)に入りなおした。
代々医師であったこと、当時医学校がここだけだったこと、入試に得意な国語と漢文があったから合格できたと回想している。熊本医専在学中、詩集『処女礼讃』に感銘。岡本弥太、池上治水、西内輝生、有光謙介らと詩誌「ゴルゴダ」を創刊、新詩運動を起こした。実は中学時代に高知新聞の新聞小説に当選し135回の連載を掲載されている文学青年でもあった。
1923(T12)熊本医学専門学校卒業し帰郷。高知市武田病院に内科医として勤務していたが、'24父が腎疾患で急逝したため家業の大塚医院を継ぐことになった。内科・小児科を主としていたため、家業の産婦人科に向かないと痛感しながらの受診の日々であったという。この時、福栄(H7.4.23没 行年90歳・旧姓は松木・同墓)と婚姻。
この頃、小砂丘忠義、上田庄三郎らの教育運動にも協力、「地軸」の発行責任者となるなど香美郡南部の文化運動の中心となった。こんな折、'27(S2)漢方医学者の湯本求眞の著書「皇漢医学」に啓発された。
'30家業の医院を廃して上京し求真の門に入り、湯本の下で古方派の「傷寒論」「金匱要略」を研究。さらに後世派と折衷派も合わせ漢方治療を広げ、漢方復興に先駆的活動を続けた。この間、'31牛込船河原町に漢方医院を開設。時同じく、詩友の伊福部隆彦を介して権藤成卿を知る。権藤は農本主義思想家であり、東洋思想は感銘するところがあり大きな影響を得た。
'34日本漢方医学会創立に参画、会誌「漢方」と「漢薬」の発行に協力した。'36偕行(かいこう)学苑を結成し、拓殖大学漢方医学講座開講、東亜医学会を発足させ国際交流に努めた。'43板倉武に従い、同愛記念病院に東方治療研究所を設立、'50日本東洋医学会創立、'55財団法人 日本漢方医学研究所を設立などを主導し、会長、理事長に就任した。
'73武見太郎と図り、北里研究所に社団法人 北里研究所附属東洋医学総合研究所を創設して初代所長に就任。'78日本漢方医療研究所理事長も兼務し漢方興隆の基礎を築いた。五十年にわたり、一意専心、難症患者の診療に従事し、絶滅に瀕していた漢方医学の復興と後進の育成に尽瘁した。それらの功績により、'78日本医師会最高優功賞受賞。
著書に『東洋医学史』『漢方医学』『臨床応用傷寒論解説』『漢方診療三十年』ほか多数あり、『大塚敬節著作集』全8巻を残した。脳出血により逝去。享年80歳。没翌年、'81生前の功績により文部大臣賞を授与した。
<高知県人名事典> <朝日人名辞典> <漢方と鍼・第134号など> <碑より>
*墓石は和型「大塚家之墓」。左側に墓誌と「大塚敬節先生顕彰之碑」が建つ。墓石裏面は「昭和三十三年十月に大塚敬節 建之」と刻む。左面に高知県の墓所から改葬した旨が刻む。
墓誌には各々の戒名・俗名・没年月日・行年が刻む。墓誌は二代で祖父(初代の希斎の兄の子で養子)の大塚恭斎から始まり、三代で父の大塚恵廸、敬節の長女で3歳で早死した和歌子、母の宮、大塚敬節の順に刻む。
その後に、「平成四年十月 高知県長岡郡久禮田村ノ墓地ヨリ改葬ス」と刻み、初代で曽祖父の大塚希斎が刻む。その後は、妻の大塚福栄、長男で東洋医学者の大塚恭男が刻む。なお、大塚敬節の戒名は杏學院醫翁敬節大居士。
*「大塚敬節先生顕彰之碑」は大塚敬節の七回忌(S61.10.15建之)に大塚敬節の偉業を後世に伝えるためとし、関係団体が顕彰委員会を発足し大塚家墓所内に供養建碑として建之した。
顕彰碑の左右に灯篭が建ち、右の灯篭には日本東洋医学会、北里東洋医学総合研究所、日本漢方医学研究所の名が刻む。左の灯篭には日本医史学会、東亜医学協会、修琴堂同門会の名が刻む。
なお、顕彰碑の裏面には、灯篭に刻まれている6団体が顕彰団体として刻み、建之者として、敬節の妻の大塚福栄、子の大塚恭男、大塚仲夫の名が刻む。
*「敬節」のヨミであるが、本来は「よしのり」と読むが、のち通称・号を兼ね、自他ともに「けいせつ」と称した。
【代々医家・大塚家】
初代の大塚希斎は土佐高知の人で、山内侯の家臣。産婦人科を業とした。その先祖は北村姓で、山内一豊が関ヶ原の軍功により土佐に封ぜられたとき、一豊に従って高知に移ったと伝えられる。医家大塚家は代々堂号を「修琴堂」と称した。修琴の文字には、人体を琴になぞらえ、健康体を作るという意が込められている。
希斎にはなかなか子供ができなかったので、兄の子を養子として家を継がせた。これが、2代目の大塚恭斎である。恭斎も産婦人科を修めた。恭斎は紀州の名医・華岡青洲が開いた医塾・春林軒に入って医を学んだ。華岡塾の門人帳に「安政四年三月十五日、土佐領石邑、大塚恭斎」と記載されている。
恭斎が養子に入ってまもなく希斎には男子ができた。大塚仰軒という。恭斎からすると異母弟にあたる。仰軒は明治の初期に東京帝国大学医学部の前身の大学東校に入ったものの、石炭王に憧れて中退した。仰軒はドイツ語が堪能であったことから、地質調査でたまたま高知を訪れていたナウマン象の発見で有名なお雇い外人のドイツ地質学者のエドモンド・ナウマンと親交を結んだ。仰軒がナウマンを恭斎の家に案内し歓待を受けたお返しとして、ナウマンがドイツ語と漢文で墨書した扁額「学専見聞命博経験」“Wissem macht,gelehrtaber erst das Leben machtden Wissenden weis”と記した。大塚修琴堂にはその交友を示すナウマン自筆の墨書額が今なお伝わり、診療室入口に掲げられている。なお、その時の様子は、ナウマン自身が帰国後に記した『日本列島の地と民』『若き日の森鴎外』にくわしい。
3代目を継いだのは、恭斎の子の大塚恵廸であり、長谷川泰の創設した済生学舎に入学し、西洋医学を修めた。恵廸の長男が敬節である。
<「大塚敬節の足跡」小曽戸洋> <大塚恭男の回想記など>
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