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なかむら さとる

中村 覚

なかむら さとる

1854.2.20(安政1)〜 1925.1.29(大正14)

明治・大正期の陸軍軍人(大将)、男爵

埋葬場所: 22区 1種 27側

 滋賀県彦根出身。彦根藩士の中村千太夫、つぎの次男。1872(M5)陸軍教導団に入り、1877名古屋鎮台から西南戦争に出征して武勲をたてた。
 1886歩兵第10連隊大隊長、参謀本部第2局員を経て、1888第1師団参謀に任命。 陸軍大学校教官、第5師団参謀を経て、1891.12.19皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の東宮武官を拝命する。 1894からの日清戦争では、大本営侍従武官、歩兵第46連隊長、東部都督部参謀長などを歴任し、少将。1900台湾軍総督府陸軍参謀長。 1902歩兵第2旅団長になった時に日露戦争が勃発し、'04出征し、旅順要塞攻撃に参加。 第三回総攻撃にあたり、各師団の選抜兵をもって、白襷隊(しらだすきたい)と呼ばれる中村支援を編成し、11月26日夜、松樹山補備砲台を占領し一気に旅順に突入しようとして、夜襲を敢行した。 この時に部下たちに対して「大勢の兵士が死んでいる。そろそろ上の者が死なないと申し訳が立たないではないか」と延べたと伝えられている。結果、抜刀してロシア軍に突入するも、敵陣は堅固であり、重傷を負い、失敗に終わった。 しかし、猛勇振りが両軍に知られた。帰還後、'05教育総監督部参謀長となり、中将に進む。
 '07第15師団長に親補され、同年歴戦の功により男爵の爵位を授爵した。'08.12.19日岡沢精の後を受け第2代侍従武官長に就任。 '13(T2)東京衛戍総督、'14関東都督、'15(T4)大将となった。'17軍事参議官を経て、'19予備役となった。功二級。享年70歳。没後、勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。
 覚の妻は外千代(同墓)。長男の中村謙一(同墓)は鉄道官僚で覚没後に男爵を継いだ。 次男の中村謙二は陸軍大佐(1942.10.12太平洋戦争のサボ島沖海戦において重巡青葉艦の副長として乗り込むも夜戦にて戦死)。五男の小林謙五(同墓)は海軍中将。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<帝国陸軍リーダー総覧>


墓所

*墓所内は正面左側に和型「陸軍大将 男爵 中村覺 / 室 中村外千代 之墓」、裏面は中村覚の歿年月日と戒名「大覺院釋歸入寶海居士」。妻の中村外千代の戒名は「大慈院釋妙悲智海大姉」。右側に土饅型の「中村家墓」。墓所右側に墓誌がある。

*墓誌は中村覚の母の つぎ(文政4.6-M35.12.30)から刻みが始まる。つぎ は山本爲右衞門の長女。滋賀県出身。なお父の中村千太夫の刻みはない。墓誌には覚の長女の貞子、覚の長男の謙一、徹雄の長女で早死した三名子、覚の五男の小林謙五、謙一の妻の玉枝、謙一の長男の徹雄、徹雄の妻の槻子、徹雄の次男の快介が刻む。(R5.12.1現在)

*中村覚の妻の外千代(慶應1.5-S18)は、彦根藩士の小林陣八郎娘で小林松太の妹。中村覚と外千代との間に7男4女を儲ける。長男の中村謙一(同墓)は鉄道官僚・男爵。二男の謙二(M18.5生)は滋賀縣士族の中村小五の養子となる。三男の謙三(M21.2-S23.4.13)は日之出商会を創立した森村豊の次女の喜美の婿養子となる。四男の謙四(M23.10生)大阪海上火災保険会社社長の多羅尾源三郎の養子となる。五男の謙五(M26.3.22-S23.4.23:同墓)は母の兄の小林松太の養子となり、自身は海軍中将になる。六男の謙六(M34.1生)は吉原千恵子の婿養子となる。七男の謙七(M39.5生)は相馬家の養子となる。長女は貞子(M29.1-M42.3.12歿:同墓)。二女の節(M31.9生)は児玉源太郎(8-1-17-1)の五男の児玉国雄と結婚。三女の勲(いさを:M37.3生)は伯爵の伊東靖祐と結婚。四女の淑尾(M42.3生)は慶松一郎と結婚。

<2009.5 墓誌より>


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