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ながた しげし

永田 稠

ながた しげし

1881.12.30(明治14)〜 1973.1.2(昭和48)

明治・大正・昭和期の移民事業家

埋葬場所: 12区 1種 18側 5番

 長野県諏訪郡豊平村(茅野市大字豊平)出身。父は村長をしていたが八ヶ岳山麓が国有林に編入されたことを抗議し政府と裁判で争い敗れ投獄され多額の負債を抱えたため、幼少期は極貧暮らしであった。また11歳の時に母は病没している。
 諏訪実科中学卒業後、4か月間、玉川村小学校で代用教員を勤めるが、上京して東京専門学校予科の政治科に進学したが学費が払えなくなり退学した。帰郷し再び代用教員となる。20歳の徴兵検査で一年志願兵を志望し、北海道の第7師団歩兵第27連隊に入隊。1903(M36)から一年訓練を受けいったん除隊するが、翌年の勤務練習中に日露戦争が勃発。'05.2 陸軍少尉として第7師団衛生隊を率いて満州戦線に参戦した。同.9 日露戦争終結後も終戦処理のため半年間、奉天近郊の村に駐留。'06.3 帰国。
 除隊後、訓練で駐屯していた北海道の農業に関心を持ち、北海道移住を決意。札幌農事試験場の日雇いとなり実習を重ねた。試験場の技師に様々な技術的な質問をしているときに、技師が「プリンシプル・オブ・アグリカルチャ(農業原理)」の洋書を貸してくれた。当時は日本語の農業技術書はほとんどなく、試験場に常備された書籍はほとんどが洋書であった。元々英語は好きであったため、4年間の軍隊生活で読解力が低下しているもすぐに克服し、片っ端から洋書を読み漁るうちに、アメリカの文化に関心を抱くようになっていった。郷里の兄一家を呼び寄せ、札幌郊外の山鼻村に移住したが、実際に入植をしてみると土地が痩せており開拓に失敗。これを機に興味を抱いていたアメリカに行く決意をした。
 当時のアメリカは日本移民排斥運動が激しく、日米両政府は日本移民自粛を約束する日米紳士協約を結び、旅券申請の保証人には一定の社会的地位が必要であった。このためアメリカに渡るには移民会社の募集する出稼ぎ移民か、海外学校を開いている日本力行会を通して留学するかの方法しかなかった。留学を選択し、'08.12 日本力行会に入会。同期生の中では年長であったが、リーダーの資質を高く評価され、渡米グループの責任者として翌年横浜から出発。
 サンフランシスコで和歌山県から移民した堂本兄弟が経営する園芸植物を専門に扱う堂本花園に就職する。札幌農事試験場時代に学んだ園芸知識が役立ち主人の助手として従事。二年間働き、渡米料金などの借金を完済した。堂本花園の退職後は鉄道施設工事などでデイワークをしながら放浪。'12 農業的自立を訴える雑誌「北米農業」の野田音三郎と出会い、出版経営を引き継いだ。移民の実情を調査し、移民の経済的自立だけでなく、日本移民排斥運動に直面する日本農民の精神的孤立を防ぐためにも農会の組織が必要だと確信し、'13.5(T2)北米日本人中央農会を発足させた。
 移民のために活動を活発させようとしていた時に、力行会の初代会長の島貫兵太夫の訃報を知る。長年肺疾患と闘いながら力行会の経営にあたっていたが48歳の若さであった。死期が迫る島貫より「永田稠に二代目会長たるべき遺命」を受ける。日本に戻るか迷った永田は、島貫の友人であった日本救世軍の山室軍平(15-1-11-1)に相談の手紙を出したところ、「君が帰国するのが力行会にとって最善である。仕事はもとより困難である。困難な先輩の偉業を継承大成することは男子の本懐ではないか。お互いに協力するから帰ってこい」との返信が届く。力行会の経営の危機もあり、'14.12 帰国。翌年、日本力行会の2代目の会長に就任し再建した。
 移民を送り出す以上、渡航以前に世界的に通用する移民教育が必要であると考え、新渡戸稲造(7-1-5-11)の後押しもあり、'16 横浜移民講習所を設立し所長となる。最初の出版物『海外発展と我が国の教育』を刊行。それまで慈善団体と見られていた日本力行会は先端的な海外事情普及、海外教育の団体として注目を集めるようになった。またこの頃、アメリカに代わる青年送り出しの国としてブラジルに注目し始めた。そんな折、絹産業者としてニューヨークから帰国してきた郷里の旧友の片岡直人から南米視察を勧められ後押しとなり、力行会顧問の沢柳政太郎が文部省の海外子女の教育実情調査嘱託に推薦。'20 文部省より在外子弟教育の調査の嘱託を受け北米・中南米を一巡した。
 当時、ブラジル・サンパウロ州に青柳郁太郎が設立したイグアッペ植民地があり、出稼ぎ移民ではなく定住移民を目指していたが定住移民が増えず苦慮していた。そこで組合運営による移住地を検討しようと、'22(T11)郷里長野県の信濃海外協会設立に参画し理事となる。また日本力行会海外学校設立の許可を得るなど尽力。'23 海外協会中央会理事長 兼 幹事となる。また日本力行会海外学校を開校した。
 '24 南米に渡り、ブラジルのアリアンサ移住地建設に着手。ブラジルに力行農業用地250町歩入手。郷里長野県からは三〇〇家族以上が送り出されブラジルに信濃村が出来たと話題になる。アリアンサとはポルトガル語で約束、協力を意味する言葉であるため、「共生・協力」を掲げた。また当時の日本人が使ってきた「植民地」という言葉をやめ、「移住地」という新しい用語を使うことにした。日本の植民地ではなく、移住者自身の意志としてブラジル社会との共生を掲げたのである。そこには海外興業株式会社が取り仕切る移民社会に対して、新しい移住者の運動であるという意志がこめられていた。
 '25 帰国。以降、力行南米農業練習所、力行婦人修養練習所、朝鮮拓殖練習所などを設立し、'33 日本力行会は文部省より財団法人の許可を受ける。'32(S7)移民調査のため満州に渡り、'34満州力行学園設立や、'37満州新京力行村建設に尽くした。'39 力行商業学校を開設し、'44 力行工業学校に校名を変更。'46日本力行会創立五十周年記念式典挙行。'57サンパウロ市の力行会支部がブラジル政府より「法人ブラジル力行会」として承認される。
 著書に『南米一巡』(1921)、『両米再巡』(1924)、『両米三巡』(1932)、『日本の外苑、海外に伸びる人々』(1962)、編著に『信濃海外移住史』などがある。海外事情普及の第一人者として講演や各県の海外協会設立に協力するため、全国を飛び回った。力行会内自宅にて逝去。享年91歳。正5位 勲3等追贈。没後は長男の永田泉(同墓)が理事長に就任した。1997(H9)日本力行会創立100周年記念式典が挙行された。

<講談社日本人名大辞典>
<ブラジル移民の100年>
<学校法人日本力行会あゆみ>
<アイアンサ運動の歴史>


*墓石正面「永田家之墓」。裏面「昭和五年八月丗一日建之」と刻む。それ以外の刻み及び墓所内に墓誌などない。

*日本力行会の広報誌によると、同墓には妻の くら、長男で力行会理事を務めた永田泉も眠る。

*遺言により、永田稠の遺骨の一部をブラジルのアリアンサ移住地に分骨され、第1アリアンサ地区頌徳公園内に永田稠の墓碑が建立されている。

*新宿中村屋の経営者の相馬愛蔵(8-1-5-3)の4男の相馬文男が、1927(S2)17歳の時に日本力行会員としてアリアンサへ渡る。現地でアリアンサの若者二人と無断で粟津金六のアマゾン調査団に随行。'29 マナウスで悪性マラリアにかかり病没した。享年19歳。この病没に対して、母の相馬黒光(8-1-5-3)は永田の監督不行届だと本に書いて抗議した。それを知った相馬愛蔵は永田のところに赴き謝罪している。相馬愛蔵は日本で文男の墓碑を建之し、船で現地のマナウスまで運び、サン・ジョアン・バチスタ墓地に建て文男を葬った。


【日本力行会(にほんりっこうかい)】
 1897.1.1(M30)牧師の島貫兵太夫が苦学生救済のために東京麹町の家を解放して「東京労働会」を設立。1900.9 文京区小石川に移転し「日本力行会」と改称。1905 現在の本駒込に移転。'08力行女学校設立。同.12 永田稠が力行会に入会。'09頃よりバンクーバー、サンフランシスコ、南カリフォルニアなどに支部が結成される。'10 日米実業学校設立。'13(T2)島貫兵太夫は永田稠に二代目会長たるべき遺命を送り鎌倉にて逝去(享年48歳)。'14.12 永田は帰国し日本力行会の2代目の会長に就任。'20 永田は初の南米一巡をし、その後、力行会から送り出しを始め、'24.10 アリアンサ移住地建設が開始。'33(S8)文部省から日本力行会は財団法人に認められた。'46 力行幼稚園創設。'61 東京都から財団に、2014.4 (H26)一般財団を経て、2014.12.1(H26)長年の懸案だった学校法人化の認可を東京都から得た。幼稚園運営と同時に、国際事業部として海外留学生を常時100人程度受け入れており、幼稚園児が外国人と日常に触れ合える環境がある日本唯一の教育機関。国際人養成が高く評価されている。


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