≪略歴をご存知の方はご一報ください≫
旧姓は森。栄(エイ・栄子)と結婚し婿養子となり長岡姓となる。クリスチャン。大倉高商(大蔵商業:東京経済大学)教授。
1907(M40)頃、盛岡第一中学校に英語教師として赴任。石川啄木を教える機会はなかったが、啄木の借金メモには名前が記載されていたエピソードがある。
妻の栄は盛岡県立第一高等女学校の講師を務めており、二人の子である光一、妙子、百合子、輝子は幼稚園の入学年齢になっていたが、当時の盛岡には幼稚園がなく、教えている女学校内に保育所をつくり矯風会のボランティアを手伝いとして保育していたが、幼児の人数が30人を超えるほど集まってしまい、また校長が代わり敷地内での保育の許可がおりず困っていたところ、賀川豊彦(3-1-24-15)の後援者であり、擴と盛岡一中の同僚であったヘンリー・タッピング(外-1-12)の夫人であるタッピング,G.F(外-1-12)が引き受け、岩手県最初の幼稚園である盛岡幼稚園を設立した。
幼稚園ではニューヨークからピアノを取寄せ、 曲を弾いて園児に自由なリズム表現を指導するなど、個性を尊重した進歩的な保育を実践したという。
1917(T6)頃、東京に戻っており、東京高等商業学校(のちの一橋大学)教授となり、英語教育に教授し、以後、名称を東京商科大学に変更後も大学の発展に尽くした。
この頃、英語教科書のクラウン・リーダーの編纂をしており、自宅に下宿させていた英国人新聞記者のトーマス・ジョーンズが表紙や挿絵を担当している。
'26(T15)英語教科書『THE NEW KING'S CROWN READERS』を神田乃武(2-1-2-10)と共著。この教科書は昭和初期にかけて旧制の中等学校英語教科書市場を席巻した。
'23神田乃武が没した際、翌年の『英語青年』(神田乃武男爵追悼号)に「神田乃武先生の略歴」と題して、米国生活から帰国し日本語が不自由になった神田乃武のエピソードなどを綴った。
著書に『英語の學び方』(S8)などがあり、モロア著『ヴヰクトリア朝の世相「ヂスレリ伝」』(S5)などの翻訳書も多数ある。
*墓石前面に「長岡擴之墓」。裏面に没年月日と建立年月日(没した翌年に建之)。右側に墓誌がある。平成19年10月に長岡ゲン他先祖代々をここの墓所に改葬した旨が刻む。
*妻の長岡栄は、墓誌には「エイ」と刻む。また栄子と書く文献もある。教育者であり、93歳まで生きた(1972.4.22歿)。擴と栄の間には2男6女を儲けている。
長男は脚本家などで活動した長岡光一(1980.10.3歿 79歳 同墓)、光一の妻の幸子(1992.4.18歿 85歳 同墓)、光一と幸子には2男1女(彰平、宏、恭子)。
長女の妙子は井上剣花坊の次男・鳳吉と結婚。父からの手紙をまとめた『よるのつる』長谷川路可の絵のモデルになった。
次女の百合子(同墓)は26歳の若さで没す。三女の長岡輝子(1908.1.5-2010.10.18)は女優・演出家。輝子の前夫の俳優の金杉又夫との間に1男(篤彦)。
夫を亡くした後、篠原玄と再婚。四女の節子(みさおこ)はピアニスト、音楽家の尾高尚忠(共に12-1-1)に嫁ぐ。長男の尾高惇忠は作曲家、次男の尾高忠明は指揮者。五女の春子は女優。
三菱商事の若林卓弥に嫁ぐ。ナチ占領下のパリ脱出の自伝を出版。次男の雄二郎は真揺美と結婚。六女の陽子は音楽家・チェロ奏者。茶人の倉田耿介の子、チェロ奏者の倉田高に嫁ぐ。娘の倉田澄子もチェロ奏者。