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おだか ひさただ

尾高尚忠

おたか ひさただ

1911.9.26(明治44)〜 1951.2.16(昭和26)

昭和期の指揮者、作曲家

埋葬場所: 12区 1種 1側 3番

 東京出身。父方祖父の尾高惇忠(あつただ=じゅんちゅう:1830~1901:新五郎ともいう)は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方祖父は実業家で子爵の渋沢栄一。尾高惇忠と渋沢栄一は従兄弟同士でもあり、「藍香ありてこそ、青淵あり」といわれ、栄一の人生に大きな影響を与えた学問の師でもある。大叔父の剣術家、尊皇攘夷派の志士は尾高長七郎で、兄の惇忠や渋沢栄一らによる「高崎城襲撃計画」や「横浜異人街の攘夷計画」では反対の立場をとり中止させた人物。父の尾高次郎(1866~1920)は漢学者・武州銀行頭取を務めた銀行家。母のふみ は渋沢栄一の三女。伯母の尾高ゆう(勇)は富岡製糸場伝習工女第一号として著名。

長兄の尾高豊作(1894~1944)は郷土教育家・出版人。次兄の鉄雄は大川平三郎の養子となり、大川鉄雄として貴族院議員。
三兄の尾高朝雄(1899~1956)は法哲学者・東京大学教授。
四兄の尾高鮮之助(1901~1933:同墓)は東洋美術研究家。
五兄の尾高邦雄(1908~1993)は社会学者・東京大学教授。尚忠は六男。弟(七男)に尾高遠四郎(1913生)がいる。
甥(邦雄の長男)の尾高煌之助は経済学者・一橋大学教授。

 成城高校を中退しウィーンに留学。1932(S7)一時帰国し武蔵野音楽学校で教える傍らプリングスハイムに作曲を学ぶ。'34 再度ウィーンに留学し、同地の音楽アカデミーの作曲科マスター‐クラスを優等で卒業。指揮科でワインガルトナーにも師事。現地でウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて作曲家としても、ウィーンでの卒業作品「日本組曲」(ワインガルトナー賞)や「フルート協奏曲」(毎日音楽賞)などの佳作を残した。
 '40 帰国後、NHK交響楽団の前身の新交響楽団で常任指揮者として日本デビューを飾る。新交響楽団が日本交響楽団に改組した後も専任指揮者として活動し、戦後も引き続きタクトを振った。
 戦中は士気高揚のために「強行軍的演奏旅行」と形容された演奏会を全国各地での行い超多忙であり、ヒロポンという麻薬を注射して指揮台に立つほどであったという。その蓄積した極度の疲労もあり、'51.1.12 名古屋での地方公演を最後に倒れ、39歳の若さで急逝。死因は出血性上部灰白質脳炎という脳の病であった。
 同.3.5 山田和男指揮による追悼演奏会が行われた。日本交響楽団は尾高の死の半年後にNHKの全面支援を受け「NHK交響楽団」と改称された。またNHK交響楽団は尾高の功績を記念し、'52 日本の作曲家の管弦楽作品に与えられる作曲賞「尾高賞」を創設した。

<コンサイス日本人名事典>
<音楽家人名事典>
<人事興信録>


墓所 墓誌碑 音符楽譜

*墓所は正面に和型「尾高鮮之助之墓」、裏面「梅窓院浄德鮮香居士 / 昭和八年三月二十三日永眠 / 行年三十三歳 / 昭和十年三月建之」と刻む。墓所右側に音符楽譜が刻む洋型「尾高尚忠 墓 / 妻 節子 墓」、裏面は尾高尚忠の略歴が刻む。墓所左側には寝石に十字架が刻み「われは 甦えりなり 生命なり ヨハネ11-25」と刻む。右側面に「丹羽晶子 1947.12.11-1978.6.28」と刻む。

*妻の尾高節子(みさおこ)はピアニスト。節子の父は英文学者の長岡擴(5-1-1)。姉の長岡輝子、妹の若林春子は共に女優。妹の倉田陽子、その娘の倉田澄子はチェリスト。

*尾高尚忠と節子の長男は尾高惇忠(祖父と同名)は作曲家、惇忠の妻の尾高綾子は声楽家。次男の尾高忠明は指揮者・ピアニスト、忠明の妻の尾高遵子はピアニストの音楽一家である。しかし、尾高尚忠が亡くなったとき、惇忠は6歳、忠明は3歳であり、父から直接指導を受けることができなかった。

*祖父の尾高惇忠、大叔父の尾高長七郎ら代々の尾高家墓所は埼玉県深谷市下手計の尾高家墓地に建つ。渋沢栄一の墓は谷中霊園(乙11号1側)。



第517回 若き天才指揮者は過労で急逝
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