東京出身。父方祖父の尾高惇忠(あつただ=じゅんちゅう:1830~1901:新五郎ともいう)は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方祖父は実業家で子爵の渋沢栄一。尾高惇忠と渋沢栄一は従兄弟同士でもあり、「藍香ありてこそ、青淵あり」といわれ、栄一の人生に大きな影響を与えた学問の師でもある。大叔父の剣術家、尊皇攘夷派の志士は尾高長七郎で、兄の惇忠や渋沢栄一らによる「高崎城襲撃計画」や「横浜異人街の攘夷計画」では反対の立場をとり中止させた人物。父の尾高次郎(1866~1920)は漢学者・武州銀行頭取を務めた銀行家。母のふみ は渋沢栄一の三女。伯母の尾高ゆう(勇)は富岡製糸場伝習工女第一号として著名。
長兄の尾高豊作(1894~1944)は郷土教育家・出版人。次兄の鉄雄は大川平三郎の養子となり、大川鉄雄として貴族院議員。
三兄の尾高朝雄(1899~1956)は法哲学者・東京大学教授。
四兄の尾高鮮之助(1901~1933:同墓)は東洋美術研究家。
五兄の尾高邦雄(1908~1993)は社会学者・東京大学教授。尚忠は六男。弟(七男)に尾高遠四郎(1913生)がいる。
甥(邦雄の長男)の尾高煌之助は経済学者・一橋大学教授。
成城高校を中退しウィーンに留学。1932(S7)一時帰国し武蔵野音楽学校で教える傍らプリングスハイムに作曲を学ぶ。'34 再度ウィーンに留学し、同地の音楽アカデミーの作曲科マスター‐クラスを優等で卒業。指揮科でワインガルトナーにも師事。現地でウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて作曲家としても、ウィーンでの卒業作品「日本組曲」(ワインガルトナー賞)や「フルート協奏曲」(毎日音楽賞)などの佳作を残した。
'40 帰国後、NHK交響楽団の前身の新交響楽団で常任指揮者として日本デビューを飾る。新交響楽団が日本交響楽団に改組した後も専任指揮者として活動し、戦後も引き続きタクトを振った。
戦中は士気高揚のために「強行軍的演奏旅行」と形容された演奏会を全国各地での行い超多忙であり、ヒロポンという麻薬を注射して指揮台に立つほどであったという。その蓄積した極度の疲労もあり、'51.1.12 名古屋での地方公演を最後に倒れ、39歳の若さで急逝。死因は出血性上部灰白質脳炎という脳の病であった。
同.3.5 山田和男指揮による追悼演奏会が行われた。日本交響楽団は尾高の死の半年後にNHKの全面支援を受け「NHK交響楽団」と改称された。またNHK交響楽団は尾高の功績を記念し、'52 日本の作曲家の管弦楽作品に与えられる作曲賞「尾高賞」を創設した。
<コンサイス日本人名事典> <音楽家人名事典> <人事興信録>
第517回 若き天才指揮者は過労で急逝 NHK交響楽団 尾高賞 尾高尚忠 お墓ツアー
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