父方祖父の尾高惇忠(1830〜1901)は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方祖父は実業家で男爵の渋沢栄一。父の尾高次郎(1866〜1920)は漢学者・銀行家。伯母の尾高ゆう(勇)は富岡製糸場伝習工女第一号として著名。長兄の尾高豊作(1894〜1944)は郷土教育家・出版人、次兄の尾高朝雄(1899〜1956)は法哲学者、弟に社会学者の尾高邦雄(1908〜1993)、指揮者・作曲家の尾高尚忠(1911〜1951 同墓)がいる。
父が第一銀行の釜山や仁川の支店長をしている時に、朝鮮で生まれた。朝鮮で出生したことで、鮮之助と名付けられる。第一高等学校を経て、1926(T15)東京帝国大学文学部哲学科(美学)を卒業。
'28(S3)美術学校附属の美術研究所(東京文化財研究所)の職員となる。経理部、資料部を経て、図書整理の任に当たった。東洋美術の研究は当初、浮世絵研究に興味を抱いていたが、矢代幸雄所長の命により、中国とインドの絵画彫刻その他全般の美術の研究を任されることとなった。'30.11.9〜12.12まで朝鮮と満州を旅行し、旅順関東庁博物館や朝鮮総督府博物館などで調査を行った。次いで、'31.10.16〜翌'32.10.14までは、美術研究を目的として、東南アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、欧州などを訪れ、詳細な日記5冊、調査ノート1冊、写真フィルム約2千枚、数千フィートの16ミリフィルムなどを残した。帰国後、現地調査の成果の整理やインド・中国美術の本格的な研究に取り組み始めていた矢先、'33.3.23急性肺炎のために逝去した。享年33歳。
志半ばで逝去した鮮之助の研究物は、弟の尾高邦雄が編者としてまとめられ、また兄の尾高豊作が興した出版社である刀江書院の協力等のもと刊行された。主な没後の遺稿集として、'35『亡き鮮之助を偲ぶ』、'39『印度日記−仏教美術の源流を訪ねて−』、『印度及南部アジア美術資料』、『故 尾高鮮之助君の手紙』がある。また、鮮之助が研究や参考のために買い集めた蔵書は、'37遺族によって研究所に寄贈され、尾高文庫と総称されている。世情が混乱していた戦前に現地に赴き、当時の民衆の風俗や遺跡美術を写真撮影という面から調査をした功績は非常に高く、また貴重な資料とされている。