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おだか せんのすけ

尾高鮮之助

おだか せんのすけ

1901.5.30(明治34)〜 1933.3.23(昭和8)

昭和期の東洋美術研究家

埋葬場所: 12区 1種 1側 3番s

 朝鮮出身。父方祖父の尾高惇忠(あつただ=じゅんちゅう:1830~1901:新五郎ともいう)は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方祖父は実業家で子爵の渋沢栄一。尾高惇忠と渋沢栄一は従兄弟同士でもあり、「藍香ありてこそ、青淵あり」といわれ、栄一の人生に大きな影響を与えた学問の師でもある。大叔父の剣術家、尊皇攘夷派の志士は尾高長七郎で、兄の惇忠や渋沢栄一らによる「高崎城襲撃計画」や「横浜異人街の攘夷計画」では反対の立場をとり中止させた人物。父の尾高次郎(1866~1920)は漢学者・武州銀行頭取を務めた銀行家。母のふみ は渋沢栄一の三女。伯母の尾高ゆう(勇)は富岡製糸場伝習工女第一号として著名。長兄の尾高豊作(1894~1944)は郷土教育家・出版人。次兄の鉄雄は大川平三郎の養子となり、大川鉄雄として貴族院議員。三兄の尾高朝雄(1899~1956)は法哲学者・東京大学教授。鮮之助は四兄。弟(五男)の尾高邦雄(1908~1993)は社会学者・東京大学教授。弟(六男)の尾高尚忠(同墓)は六男。弟(七男)に尾高遠四郎(1913生)がいる。甥(邦雄の長男)の尾高煌之助は経済学者・一橋大学教授。甥(尚忠の長男)の尾高惇忠(同墓)は作曲家。甥(尚忠の長男)の尾高忠明は指揮者。
 父が第一銀行の釜山や仁川の支店長をしている時に、朝鮮で生まれた。朝鮮で出生したことで、鮮之助と名付けられる。第一高等学校を経て、1926(T15)東京帝国大学文学部哲学科(美学)を卒業。
 '28(S3)美術学校附属の美術研究所(東京文化財研究所)の職員となる。経理部、資料部を経て、図書整理の任に当たった。東洋美術の研究は当初、浮世絵研究に興味を抱いていたが、矢代幸雄所長の命により、中国とインドの絵画彫刻その他全般の美術の研究を任されることとなった。'30.11.9〜12.12まで朝鮮と満州を旅行し、旅順関東庁博物館や朝鮮総督府博物館などで調査を行った。次いで、'31.10.16〜翌'32.10.14までは、美術研究を目的として、東南アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、欧州などを訪れ、詳細な日記5冊、調査ノート1冊、写真フィルム約2千枚、数千フィートの16ミリフィルムなどを残した。帰国後、現地調査の成果の整理やインド・中国美術の本格的な研究に取り組み始めていた矢先、'33.3.23急性肺炎のために逝去した。享年33歳。
 志半ばで逝去した鮮之助の研究物は、弟の尾高邦雄が編者としてまとめられ、また兄の尾高豊作が興した出版社である刀江書院の協力等のもと刊行された。主な没後の遺稿集として、'35『亡き鮮之助を偲ぶ』、'39『印度日記−仏教美術の源流を訪ねて−』、『印度及南部アジア美術資料』、『故 尾高鮮之助君の手紙』がある。また、鮮之助が研究や参考のために買い集めた蔵書は、'37遺族によって研究所に寄贈され、尾高文庫と総称されている。世情が混乱していた戦前に現地に赴き、当時の民衆の風俗や遺跡美術を写真撮影という面から調査をした功績は非常に高く、また貴重な資料とされている。


墓所 墓誌碑 音符楽譜

*墓所は正面に和型「尾高鮮之助之墓」、裏面「梅窓院浄德鮮香居士 / 昭和八年三月二十三日永眠 / 行年三十三歳 / 昭和十年三月建之」と刻む。墓所右側に音符楽譜が刻む洋型「尾高尚忠 墓 / 妻 節子 墓」、裏面は尾高尚忠の略歴が刻む。墓所左側には寝石に十字架が刻み「われは 甦えりなり 生命なり ヨハネ11-25」と刻む。右側面に「丹羽晶子 1947.12.11-1978.6.28」と刻む。

*同墓に眠る弟の尾高尚忠の妻の尾高節子(みさおこ)はピアニスト。節子の父は英文学者の長岡擴(5-1-1)。姉の長岡輝子、妹の若林春子は共に女優。妹の倉田陽子、その娘の倉田澄子はチェリスト。また尚忠と節子の長男は尾高惇忠で作曲家、惇忠の妻の尾高綾子は声楽家。次男の尾高忠明は指揮者、忠明の妻の尾高遵子はピアニストの音楽一家である。

*祖父の尾高惇忠、大叔父の尾高長七郎ら代々の尾高家墓所は埼玉県深谷市下手計の尾高家墓地に建つ。渋沢栄一の墓は谷中霊園(乙11号1側)。


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