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まつおか えいきゅう

松岡映丘

まつおか えいきゅう

1881.7.9(明治14)〜 1938.3.2(昭和13)

大正・昭和期の日本画家

埋葬場所: 10区 1種 13側 19番

 兵庫県神崎郡出身。本名は輝夫。儒学者で医者の松岡操の末っ子の八男として生まれる。兄に長男で医師の松岡鼎、三男で歌人・国文学者の井上通泰(19-1-12)、六男で民俗学者の柳田國男、七男で海軍大佐・民族・言語学者の松岡静雄がいる。他に二男・四男・五男の3人の兄がいたが早くに亡くなり、成人したのは松岡映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」。
 幼少期に兄の松岡鼎に引き取られ、現在の茨城県北相馬郡利根町に移り住む。この地で子どもの頃から歴史画や武者絵を好み、1895(M28)橋本雅邦に学ぶが、とにかく鎧を描きたすぎて、合わず。そこで兄の友人の田山花袋(12-2-31-24)の紹介で、1897 大和絵の大家の山名貫義を師事し、大和絵の臨画の指導をうけた。
 1904(M37)東京美術学校を首席で卒業。在学中に兄の井上通泰から『日本書紀』「天岩戸再生の条」で美の形容して「映二丘二谷」から取られた「映丘」の画号を名付けられ、以降、名乗るようになった。卒業後、神奈川女子師範学校教諭を務めていたが、やまと絵の先輩の小堀鞆音(7-2-7-1)が教授を務めている東京美術学校助教授に誘われ就任。
 '12 第6回文展において『宇治の宮の姫君たち』が初入選。翌年の文展に出品した『住吉詣』は宮内庁がお買い上げになる。'16(T5)第10回文展に出品した『室君』は重要文化財になる。その翌年の第11回文展で『道成寺』が特選三席になり、次の年の第12回文展で『山科の宿「雨やどり」』を出品し特選首席と立て続けに傑作を世に出した。
 '16 平福百穂 (5-1-10-15) らと美術団体「金鈴社」の結成に参加。'20 大阪堺出身。自身の門下生であった林静野と結婚(松岡静野として作品が残っている)。
 '21 自らを筆頭に門下生たちと「新興大和絵会」を創立し、大和絵の復興運動を展開した。'29(S4)第10回帝展に出品した『平治の重盛』で帝国美術院賞を受け、'30 帝国美術院会員に選出。'32 第13回帝展に出品した『右大臣実朝』は代表作。この間、'29 フランスで開催された「巴里日本美術展覧会」に『卯の花車』という作品を出品し、フランス政府が買い上げとなり、この功績で、'31フランス大統領から勲章を授与された。
 '35 帝展の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた東京美術学校を辞し、同年9月に自ら盟主となり「国画院」を結成。'37 帝国芸術院会員となったが、翌年、心臓喘息(心不全による呼吸困難)で逝去。享年56歳。

<コンサイス日本人名事典>
<本朝画人伝>
<各美術館での松岡映丘の紹介文など>


墓所

*何も刻まれていない五輪塔が建つ。また墓所入口に「松岡映丘之奥都城」と刻む石柱が建つ。石柱の左面「正三位 勲一等 正木直彦 書」と刻む。正木直彦は美術行政家で東京美術学校名誉教授。

*父の松岡操、兄の松岡鼎の墓は、千葉県南相馬郡布佐町(我孫子市宇布佐)の勝蔵院。なお、早くに亡くなった兄弟、二男の俊次、四男の芳江、五男の友治も勝蔵院に眠る。なお、六男の柳田国男は神奈川県の春秋苑墓地、七男の松岡静雄は横浜の日野公園墓地。また三男の井上通泰が養子となった井上家の菩提寺は兵庫県神崎郡にある観音寺。



第161回 やまと絵 復興に力を注いだ巨匠 松岡映丘 お墓ツアー


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