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こぼり ともと

小堀鞆音

こぼり ともと

1864.3.26(文久4.2.19)〜 1931.10.1(昭和6)

明治・大正期の日本画家、近代歴史画の父

埋葬場所: 7区 2種 7側 1番

 下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)出身。農家の須藤惣兵衛・美奈の三男として生まれる。旧姓は須藤、本名は桂三郎。鞆音は雅号。 父の惣兵衛は農業の傍ら、晏斎の雅号で武者絵などを描いていた画家でもあり、長兄の勝三は桂雲と号して山水画など南画系の絵を残している。1878(M11)亀田桜園から国漢を学び、父や兄から絵の指導を受け始める。この頃より「琢舟」の雅号を用いた。
 1881慶応義塾を目指すため同窓3人と家出をし上京。友人3人はすぐに連れ戻されたが、自身は数か月東京に留まれ、この間、画家を訪ね歩いていたという。生家から父の病の報を受け帰郷。 1883(M16)兵役を免れるために父が配慮し、生家近くで廃家となっていた小堀家を養子として相続する。この頃から雅号を「雨舟」と改めた。
 1884第2回内国絵画共進会に出品したことを機に上京し、川崎千虎(7-2-7-2)に入門、土佐派の絵と有職故実を学ぶ。また古画の摸写に従事するかたわら雑誌の挿絵をかいた。 1889日本美術協会青年絵画共進会に出品して一等褒状を受けた。この頃から雅号を「鞆音」と改めた。1890第3回内国勧業博覧会に『大阪後之役図』を出品し、妙技三等賞となり、この作品を第一高等学校が買い上げた。 1892岡倉天心や橋本雅邦らの発起人で設立した日本青年絵画協会に参加。1895第4回内国勧業博覧会で『宇治橋合戦図』が妙技三等賞に選ばれる。
 1897東京美術学校助教授となるが、翌年の校長であった岡倉天心が解任されることで反対した教授・助教授34名が辞職声明書を提出した東京美術学校騒動に巻き込まれ退職。 新たに岡倉天心や橋本雅邦を中心に設立された日本美術院創立に加わり正員となる。同じ時期に小堀鞆音門下の安田靫彦、磯田長秋らが紫紅会を設立している。
 1908東京美術学校に教授として復帰。文展では第1回より審査員となる。'12鞆音門下の有志が集まって「鞆」の字から「鞆丙会」を組織し、以後展覧会を開催し鞆音自身も出品するようになった。 '17(T6)宮内庁より帝室技芸員に任命される。'19勅令によって文部省美術審査委員会に代わり帝国美術院創立に伴い、会員に任命された。 この時の院長は森鴎外であり、会員は他に川合玉堂(2-1-13-8) や富岡鉄斎らも任命されている。'23故郷の人丸神社開帳に際し『柿本人麻呂図』を描く。'29(S4)国宝保存会委員を務めた。'30勲3等瑞寶章受章。
 有職故実を研究すると共に、大和絵の伝統を取り入れた新しい歴史画分野を開拓し、近代歴史画の父と称される。とくに武者絵を得意とした。 弟子に安田靫彦、川崎小虎(7-2-7-2)、尾竹国観(13-1-8-6)ら逸材が出ている。代表作に『経政詣竹生島』『武士』『忠孝之図』『宇治橋合戦』『清麿詣宇佐』『舞楽図屏風』などがある。 勤皇家としても知られた。享年67歳。没後、正4位追贈。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<美術人名辞典>
<佐野市立吉澤記念美術館:小堀鞆音没後80年展など>


墓所

*墓石は宝篋印塔(ほうきょういんとう)。正面の文字は月輪(がちりん)に梵字(ぼんじ)。裏面の月輪には「昭和五年九月十七日建之 標題 小堀鞆音」と刻む。右側に「小堀家之墓」と刻む墓誌碑が建つ。裏面は墓誌となっており、俗名、没年月日、行年が刻む。左側にも墓誌が建つ。妻はスズ(S20.1.26没・行年80歳)。

*長男の小堀稜威雄(いつお:S63.8.19没・行年93歳)は洋画家。父没後に父の画集『鞆音遺響』を出版。長女のツネは子爵で海軍中将の小笠原長生の弟で洋画家の小笠原丁に嫁いだ。孫の小堀桂一郎は比較文学者・東京大学名誉教授。小堀桂一郎の娘は古代ローマの宗教研究者の小堀馨子(けいこ)は曾孫。



第154回 近代歴史画の父 小堀鞆音 お墓ツアー


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