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くさま しげる

草間 滋

くさま しげる

1879.2.25(明治12)〜 1936.10.8(昭和11)

明治・大正・昭和期の病理細菌学者

埋葬場所: 6区 1種 16側 31番

 長野県東筑摩郡寿村(松本市)出身。父は松本銀行取締役の草間代次郎、以津の次男として生まれる。弟(三男:幼名は偉瑳武)の草間偉は土木工学者。
 14歳で東京独逸学協会学校に入学し5年間修行。1898(M31)第一高等学校入学。1901東京帝国大学医科大学入学、'05卒業後、同学病理学教室に入る。'08(M41)1月北里柴三郎博士の知遇を得て、伝染病研究所に転じ、細菌学および血清学の研究に当たる。'10 ドイツに留学し、フライブルク大学病理学教室に入り、アショフ博士に師事。'12(T1)10月ハンブルク熱帯病学研究所に転じ、研究に従事。'13.2帰国、伝染病研究所技師として復帰。'14.11北里柴三郎博士の北里研究所創立に参じ、同研究所部長に就任。'19.4慶応義塾大学医学部創立に際し、病理学教室主任教授に就任。
 わが国の病理細菌学の権威として知られた。医学博士。享年58歳。

<平凡社『日本人名大事典』>
<草間滋のご遺族様である石橋隆様より情報提供>


草間 滋(肖像) 墓地全景 碑 *碑文の画像をクリックで拡大

*墓所は正面「草間家之墓」、裏面「昭和七年十一月建之」。左側に「草間滋君之碑」、右側に墓誌が二基建つ。入口に近い右側の墓誌が草間家の墓誌、左側が石橋家の墓誌で石橋家墓誌。草間家墓誌の裏「昭和四十年十月草間毅一建之」。草間家墓誌は草間滋から刻みが始まり、戒名は光明院滋心悟道居士。前妻は鏡(1886-1930.2.28)は裁判所検事の一色信太郞の妹。後妻の篤子(1893-1936.10.3)は子爵の黒田和志の三女。他に、叔母すま、長男毅一夫妻、次男卓次夫妻、四女慶子(よしこ)が眠っている。孫の石橋淑子(卓次二女)の夫で、母方の大叔父が草間滋である石橋隆が長年草間家墓所を継承し維持管理に当たり、石橋隆没後、墓石を草間家・石橋家の連名にし、石橋家墓誌を新たに建てた。墓所左側に「草間滋君之碑」が建ち、篆額は北島多一、撰文は川村麟也(19-1-10)である。

* 草間滋の弟の草間偉(いさむ)(雑司が谷霊園)は土木工学者であり、上下水道工学の権威である。 草間滋の長男の毅一(同墓)は軍人、次男の卓次(同墓)は90歳まで現役医師を勤めた医者、長女の美恵子は文部省社会教育官・実業家(高島屋)不破祐俊夫人、次女の徳子は直腸肛門外科の第一人者の小平正(3-1-9)夫人、三男の章(中村章)は「普選の父」と呼ばれた中村太八郎(9-1-8)の養子、三女の和子は教師の黒川晴次郎夫人、四男の隆は草間医院院長、五男の達也(黒川達也)は立川病院院長。 また、草間滋の甥で、抗生物質のロイコマイシンとマイトマイシンの発見者であり北里研究所長を歴任した秦藤樹(とうじゅ)は、秦佐八郎(14-1-21-15)の嗣子。 同じく甥の草間昌三は信州大学医学部名誉教授。次の世代にも医師・医学者が多い。

*草間滋のご遺族様にあたられる石橋隆様より2006年9月メールをいただき、加筆修正および、写真のご提供をしていただきました。 この場をお借りし、深く感謝申し上げます。

*2006年11月に草間卓次の三回忌の法要が行われました。 ご遺族の石橋隆様が、当サイトをご覧になり、草間滋の没後70年に当たることにお気づきになられ、草間卓次の3回忌の際、併せて供養した旨のご連絡がありました。 石橋様は「亡くなったら全て無くなり、何年かしたら全て忘れ去ってしまうということでなく、その人が生きていたことをしっかり記録し、その人の人生や人格を時折思い出すことが一番のご供養になると私は考えております。」というお言葉を頂戴いたしました。 編集者としては大変光栄でありましたので、石橋様のご許可を取らせていただいた上で、この場にてご報告いたします。


草間家 石橋家 之墓 墓地全景

※草間家の貴重な情報をご提供していただいたご遺族の石橋隆様が、2013.3.24(H15)が永眠されました。享年は70歳。戒名は真岳隆道居士。それに伴い、現在墓石は「草間家 石橋家 之墓」となっている。墓誌も石橋家用のが草間家墓誌の隣に建之された。



第409回 ご遺族の言葉 病理細菌学の権威 草間滋 お墓ツアー


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