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なかむら たはちろう

中村太八郎

なかむら たはちろう

1868(明治1.2.20)〜 1935.10.17(昭和10)

明治・大正期の社会運動家、
普通選挙運動家、普選の父

埋葬場所: 9区 1種 8側

 信濃国筑摩郡大池村(長野県東筑摩郡山形村)出身。豪農の中村琳蔵の長男として生まれる。9歳のときに父が、13歳のときに祖父が亡くなり、母と祖母に育てられた。
 1883(M16)松本に遊説に来た岡千仞という儒者について上京し、岡塾に入り1年半ほど漢学を学ぶ。1886 から専修学校で英語、法律、経済学などを学び、卒業後は郷里に戻る。1890 地価修正反対運動や、1895 三国干渉に反発し遼東半島返還反対運動を起こすなど、社会問題に鋭い関心を示し、木下尚江らと社会運動家として活動した。
 1896.12 木下尚江らと「平等会」を組織、翌年上京し片山潜らと社会問題研究会の結成に参画。結成後すぐに普通選挙問題が出る。当時の衆議院議員選挙法は、直接国税15円以上を納める男性のみに選挙権が与えられていた。ちなみに、明治30年前後の1円は現在の約2万円くらいの価値であるため、単純に30万円の税金を払っている人が投票できたということである。
 制限を設けず選挙権を平等にするための運動をすぐに始めようと、1897.7 松本で「普通選挙期成同盟会」を結成した。ところが、翌月の8月10日、中村と木下が県議選関係の恐喝詐欺取財容疑で逮捕され、2人とも一審では有罪判決を受けて控訴し東京へ護送され監獄署に収容されてしまった。木下は翌年無罪となり出獄、中村は二審でも有罪とされ、服役して、1899.5 出獄。
 出獄した二か月後より、「普通選挙期成同盟会」の看板を掲げて、会長として運動を再開した。これがわが国初の実際運動と取り組みであり、全国組織の普通選挙期成同盟会成立の道をひらいていく。半年後、1900.1 千名の普通選挙請願書を提出するなど運動の成果もあり、直接国税の下限制限が15円から10円に引き下げられた。目的は制限撤廃での誰もが平等の選挙であるため、引き続き活動を継続。1901 名前を「普通選挙同盟会」を改称した。
 活動を始めて一年後に開いた第3回普通選挙同盟会兼労働者大懇親会には6千人もの人が集まった。しかし、その後の意見は通らないため、1902.1.10 第7回衆議院議員総選挙に立候補する。中村は「貧者、弱者、労働者、小作人、婦人の地位向上を進める」「選挙権のない大多数の国民の意志を代表する」と訴えるも、結果は落選。この落選により応援していた名望家が同盟会を脱退し、普選運動は衰退していった。さらに大逆事件を契機に、社会運動家の活動は弾圧され、1911 普通選挙同盟会は解散を命じられた。この間、日朝親善、土地固有問題も取り組み、'05 山路愛山らと国家社会党の創立に参加。'25(T14)土地国有講究会を組織した。
 大正時代となり、民主主義の考えが広がり大正デモクラシーのもと普選運動が再び活発になる。1919.3.1(T8)中村が実行委員長となり日比谷公園で日本最初の集団示威運動、いわゆるデモ活動を行った。すると約5万人が集まり、行列参加者もあわせればプラス約1万人がデモに参加した。これを受けて、中村は普通選挙同盟会の再起を図り、同.4.16 発会式を開き復活させた。'20.2.26 衆議院が解散し、5月に選挙が行われると、中村は普通選挙実現に向けて立候補する。しかし、選挙結果は落選。意気消沈し普選運動から距離をおくようになった。
 ところが、中村が30年の長きに渡り訴え続けてきた普通選挙の思いは伝わっており、'24 総選挙では普通選挙に賛成する政党が多数を占め、翌年、加藤高明内閣で25歳以上の男子は納税額に関係なく選挙権を持つ普通選挙法案が、衆議院、貴族院と通過し可決した。報知新聞は「30年の長きに渡って終始一貫、献身的努力を普選の達成に捧げた普選の大恩人、中村太八郎を忘れるな」と記事に書いた。普通選挙祝賀会で中村は納税額による制限をなくしたが、婦人参政権はなく、25歳という年齢制限も変わらなかったため、「完全なる普通選挙の実現を期す」とコメントしている。享年67歳。20歳以上の男女普通選挙が実現するのは、太八郎没11年後からとなる。

<コンサイス日本人名事典>
<市民・社会運動人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<郷土歴史人物事典 長野>
<「松本における普選運動と中村太八郎」上条宏之>


墓所

*墓石正面「中村家之墓」、裏面「昭和六十二年秋彼岸 中村章 建之」。墓所右側に洋型「中村太八郎 / 同 キルビーメリ」、裏面「明治元年二月二十日生 昭和十年十月十七日歿」と太八郎の生没年月日が刻む。

*墓所左側に墓誌が建ち、中村太八郎から刻みが始まる。行年は68才と刻む。妻は早期英語教育の先駆者の中村キルビー・メリ。中村太八郎の養子となった中村章(1917-1988.1.25)は病理細菌学の権威の草間滋(6-1-16-31)の3男。中村章の戒名は温光院芳林章道居士。章の長女の中村冨美子はキルビー学院理事長を務めた。冨美子はご健在であるが墓誌に刻みがあり、戒名は優光院章園冨華大姉。

*1868年は慶應4年9月8日より明治に改元した。そのため、中村太八郎が生まれた2月20日は慶應4年であるが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される。よって、ここでは墓石に刻まれている通り、中村太八郎の生年月日を明治元年2月20日として紹介する。なお慶応4年(明治元年)9月8日は西暦では、1868年10月23日である。

*中村太八郎の郷里の東筑摩郡山形村の清水寺(せいすいじ)に中村太八郎の顕彰碑が建つ。


【日本の選挙】
 現在の日本国は2016年より選挙権年齢が18歳以上に引き下げられ、18歳以上の男女全ての人たちに選挙権が与えられている。女性が選挙権を持ったのは戦後からで、男性も1925年(大正14年)から満25歳以上の男子に限り、普通選挙法制定で投票ができるようになった。それ以前は、直接国税納税額などにより投票できる人が限られていた制限選挙であった。一方で、日清戦争や日露戦争などの兵士になる国防の義務は財産などによらず、成人男子全体に課せられていた。命を懸けた国家への貢献を求められた国民の範囲と、政治参加が認められた国民の範囲にズレが顕在化していた。普通選挙の実現を求めた運動は大正デモクラシーのもとで最高潮に達し、1925年の普通選挙法制定と繋がっていくのだが、そのきっかけをつくったのは、それまでの30年もの長きに渡り、普通選挙実現に向けて訴え続けた中村太八郎の尽力があってのことである。



第408回 普選の父 中村太八郎
早期英語教育の先駆者 中村キルビーメリ お墓ツアー


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