島根県石見国美濃郡都茂村(益田市美都町)出身。床屋の山根道恭・ヒデの8男として生まれる。
兄の山根藤七は漢文学者。1887(M20)14歳の時に同村の医家の秦徳太・ツタの養子となる。
岡山第三高等中学校医学部卒業後、1年間志願兵役を務め、1897(M30)岡山県立病院助手。
井上善次郎から内科学、荒木寅三郎から医化学を学ぶ。この間、1895養子先の徳太の長女のチヨと結婚。
1898上京し、大日本私立衛生会の伝染病研究所に入所、所長の北里柴三郎に師事。1904日露戦争従軍・南満州各地に赴く。
ドイツに留学し、国立実験治療研究所でエールリッヒを扶けて梅毒に対する特効薬の研究をし、1910(M43)606号物質に梅毒特効薬としての効果を発見しサルバルサンと命名。
これは、世界初の化学療法剤である。この発見をドイツ学会に発表。世紀の大発見にノーベル医学賞候補にもなった。
この功績により、'11勲5等双光旭日章。'12「螺旋菌病のヘモテラピー」の論文で医学博士。
'14(T3)伝染病研究所移管に伴い北里と共に総辞職し、北里研究所設立に参画した。'15国産サルバルサン創製に成功。
'21極東熱帯医学出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張、'23アメリカロックフェラー財団の招きで米国・カナダの医事衛生視察した。
'26 ドイツ帝国自然科学院会員。'28(S3)ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席。
'31北里柴三郎死去に伴い、北里研究所副所長に就任。'33帝国学士院会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける。
'35財団法人保生会創設に参画、常務理事長。慶応大学附付属病院に入院し療養していたが、逝去。享年65歳。
秦八千代の著『秦佐八郎小伝』『まんが世紀の医学者 秦佐八郎』がある。郷里である島根県益田市美都町に秦記念館がある。'90(H2)日本化学療法学会に志賀潔・秦佐八郎記念賞が制定された。