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かわむら りんや

川村麟也

かわむら りんや

1879.9.11(明治12)〜 1947.10.31(昭和22)

明治・大正・昭和期の病理学者(恙虫病研究)

埋葬場所: 19区 1種 10側

 山梨県北巨摩郡塩﨑村(甲斐市)出身。川村将徳の5男として生れる。1897(M30)上京し、第一高等学校を経て、1906 東京帝国大学医科大学を卒業、ただちに病理学教室に入り、山極勝三郎に師事。
 '08ドイツ・イギリスに留学のため渡欧し、ベルリンのヨハネス・オルトやルードヴィッヒ・アショフに師事。'11 帰国し、新潟医学専門学校の病理学教室の初代教授に就任。法医学教室も兼任。また東京帝国大学講師も兼任した。
 新潟県地方病予防委員嘱託となり、地方病、特にツツガムシ病(恙虫病)の病原体研究に努め、病原体がリケッチアであることを突きとめた。ツツガムシ(恙虫)はダニ目ツツガムシ科のダニの総称。ツツガムシ科に属するダニ類は日本では約100種が報告されている。'16(T5)ツツガムシ病の発育環を発表した(「恙虫病之研究」)。他にも脂肪染色法など一般病理学面での業績も残している。さらに日本住血吸虫症の研究でも成果を残した。
 '22.2 新潟医学専門学校が大学昇格により新潟医科大学になるや同大学教授となる。同年二度目の欧米出張に出発し、4年後帰国した。その間、'24 類脂質(コレステリンエステル)の研究により帝国学士院賞を受賞。
 '28(S3)第1回万国熱帯病および衛生学会に出席、エジプト大学から名誉博士号を受けた。'32(S7)ツツガムシ病の病原体発見・研究の業績に対し、日本細菌学会の浅川博士奨学賞を受賞した。
 '36.10.8 慶應義塾大学医学部病理学教室教授の草間滋(6-1-16-31)が死去。草間滋とは『病理総論』を共著するなど仕事だけではなく、プライベートでも親交が深かった。この関係性より、'37.4 新潟医科大学を辞し、草間滋の後任として慶応義塾大学医学部病理学教室に異動し教授に着任。同時に社団法人北里研究所の部長も兼任した。新潟医科大学は退任後に名誉教授。享年68歳。

<日本近現代人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<人事興信録>


墓所 碑

*墓石前面「川村家之墓」、裏面は墓誌となっている。川村麟也から刻みが始まる。戒名は麟祥院殿恵明救世大居士。妻は れい(礼子:M16.3-S45.10.18)。れいは東京医事新誌に「川村麟也之生涯 -人- 」を著した(1951)。二人の間に3男3女を儲けているが、長男の川村直道(T4-S16:同墓)は21歳で没し、二男も早死(同墓)、三男の川村明義が家督を継ぎ、免疫学者として活躍した。戒名はない。明義の妻は玲(H22.2.28歿・86才)。なお、長女は惠津子(T3.2生)、二女は美譽(T5.10生)、三女は千代子(T10.11生)。

*墓所右側に「川村麟也之碑」が建つ。碑文の最後に「昭和二十三年八月二十五日 北里研究所長 北島多一 撰花書」と刻む。


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