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こうの みつじ

河野光次

こうの みつじ

1882(明治15)〜 1958.6.1(昭和33)

明治・大正・昭和期の土地開発事業家、
尾崎行雄の秘書

埋葬場所: 8区 2種 27側

 広島県沼田郡緑井村(広島市安佐南区緑井)出身。先祖は伊予国の戦国大名の河野通直の末裔。河野唯助の二男として生まれる。長兄は緑井村青年会長や報徳銀行取締役などを務めた河野唯一。弟の河野一三(同墓)は桜植樹運動家。伯父に神職の玉木巌雄。甥に大東文化大学名誉教授の会計学者の河野一英や、東急建設重役の河野典男(同墓)らがいる。
 近衛篤麿らのアジア主義に感銘し上京を決意し、早稲田大学に入学すると同時に、政治家の尾崎行雄の書生となった。大学卒業後、1904.8(M37)志しを同じく尾崎の書生を共にしていた畑弥右衛門と朝鮮・京城龍山地区(ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始める。この時、弟の河野一三を呼び寄せ、一三は平田屋に就職することになり、当時京城民団議員や農地住宅地の経営を行っていた村井啓助の妹の房とのご縁に繋がる。
 1909 朝鮮の龍山での土地開発事業は失敗して内地に戻り、当時東京市長を務めていた尾崎行雄の秘書になる。'10 尾崎行雄の養女の多満(同墓)と結婚。'12 尾崎行雄が東京市長在任中に日米友好の証として、荒川堤の桜から接ぎ穂して育てた十二品種、3100本の桜を首都ワシントンに贈り、ワシントン・ポトマック河畔に植樹された際に秘書として関わる(最初2000本を送ったが虫害により焼却されてしまい、後に3100本を改めて送った)。アメリカはその返礼として日本にハマミズキが贈られた(日本に初めてハナミズキをもたらしたとされる)。この桜の植樹は弟の河野一三に影響を与え後に桜植樹運動をするきっかけとなる。
 同志の畑弥右衛門は阪急グループ創業者の小林一三の都市郊外田園都市構想に影響を受ける。畑と河野は朝鮮での失敗を反省し、次は日本での田園都市計画を模索することになっていく。'15.2.18(T4)尾崎行雄に紹介状を書いてもらい渋沢栄一を訪問し荏原郡開発を提案した。その後も話を進め、渋沢は中野武営や星野錫(6-1-9-7)らに土地会社設立の件で話し合いをし、欧米の都市を念頭に置いて田園郊外住宅地開発とそれにともなう鉄道など諸般設備の整備を構想。'16.11 田園都市株式会社創立委員会が開催され渋沢を委員長として動き出す。'18.9.2 後に東急グループの母体企業となる田園都市株式会社が設立される。渋沢は相談役、発起人代表に中野武営、役員には服部時計店の服部金太郎(6-1-1-10)、星野錫らの名が連なった。畑と河野は居住していた洗足池や多摩川台周辺から土地買収交渉などに関わり、後の田園調布誕生に尽力した。
 '19.9 尾崎行雄に随行する形で、アメリカへ渡航。ニューヨークやワシントンなどを視察した。米国カリフォルニアの移民の稲作の成功を参考に、朝鮮から満州・北支にかけての地域に大規模機械化農業を導入し、農業地帯の開墾や開発をする構想を抱き、朝鮮興業会社にも関わった。
 '26.3 友人の葛原猪平の葛原冷蔵が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねた。'30(S5)旅客・宿泊・ツアー企画等を総括する国内観光旅行代理店事業構想を実現させるために、畑弥右衛門と共に日本観光株式会社を起業した。主に九州瀬戸内海方面外客待遇設備や九州横断ツアーなどに力を注ぐ。これらを雑誌「ツーリスト」などにて寄稿している。
 戦後、尾崎行雄(号を咢堂)が第26回衆議院議員選挙に落選を契機に政界引退。'54.10.6 尾崎行雄が97歳で亡くなる。秘書としての活動も終わるが、「尾崎咢堂生まれ地記念事業委員会」の一員として尾崎行雄生誕地(神奈川県相模原市緑区又野)に顕彰記念館(尾崎咢堂記念館:'57.1.25落成)を設立する運動に関わった。享年76歳。

<近代名士家系大観>
<ツーリスト第18年第6号>
<唐澤貴洋Wiki恒心百科事典>


墓所 墓所

*墓所には二基建つ。左側が和型「河野家之墓」、裏面「昭和四十年十月 河野一三 建之」。右側が洋型「憩」とあり、裏面「建立 河野光次 / 再建 平成二十三年 川俣徹男」と刻む。それぞれの墓石に墓誌がある。

*河野光次の妻は尾崎行雄の養女の多満(1889.3-1935.11.6)。多満の実父は浅見萬吉で、三女として東京で生まれた。墓誌に「浅見家一族」という刻みがあることから、多満の実家の方々も合葬されていると思われる。1910(M43)光次と多満は結婚し、二人の間に3男3女を儲ける。二女以外は全員墓誌に刻みがある。墓誌には、光次の前に五名が刻む。龍男(三男:S6.3.31歿)、光彌(長男:S7.2.27歿)、多恵子(三女:S7.3.25歿)、多満(妻:S10.11.6歿)、雪子(長女:S11歿)。この後に、光次、浅見家一族の刻みがあり、家督を継いだ二男の河野芳郎(H14.4.20歿・享年81才)、芳郎の妻の公子(H6.4.6歿・享年65才)が並ぶ。次いで、芳郎と公子の娘であろう川俣節子(H30.1.29歿・享年87才)と節子の夫の川俣實(H22.10.22歿・享年85才)が刻む。墓石の再建者として刻む川俣徹男は實と節子の長男であると思われるため、河野光次の墓所継承者は川俣家が引き継がれ、それを機して河野家の墓石を「〇〇家」ではなく「憩」の一字にしたと推測する。

*墓誌の裏面には『我儕の國は天に在り「ピリピ.三ノ廾」』(われらのくにはてんにあり:ピリピ書 第3章)と刻む。これは「ピリピ書」「ピリピ人への手紙」ともいわれる新約聖書中の一書であり、ピリピ人の教会にあてたパウロの獄中書簡の一節である。獄中書簡であるにもかかわらず信仰による義への確信が一層強く、キリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びにあふれているところから「喜びの書簡」とも呼ばれている。


【家族が立て続けに亡くなる悲しさを綴った日記:「神道我観」河野光次】
 1931.3.31(S6) 3男の龍男を4歳で亡くし、臨月であった妻が早産して健康を害してしまった。翌、'32.2.27 長男の光彌を、慶應大学の在学中であった21歳の若さで亡くし、同.3.25 早産した三女の多恵子も亡くす。更に、'35.11.6 体調を崩していた妻の多満が47歳で亡くなり、'36.12.15 長女の雪子が高等女学校卒業の17歳で亡くなった。
 都合六年間に最愛の家族を五名も失い、自身も病気になり死線を彷徨った。亡くなった五名は一人も急病や怪我で亡くなったのではなく、短くは一ヶ月、長きは数年病床にあったため、必ず治るものと治療に最善を尽くした。そのため、自我がなく亡くなったのは三女の多恵子のみであり、長男は「未だ死にたくない」と言い、妻は「先へ往く済まぬ、跡を頼む」と言って亡くなった。三男は絶命するまで私の膝から離れず、長女は「父には済まぬが母の許へ往く」と言って死んだ。
 息の通う間は親の名を呼び、夫の名を呼び、呼び手を握る。これを看取る身には全く自分が身代わりになって生かしてやりたい。身も世もあらぬ思いに胸は張り裂ける。これはひとつでも経験をした者でなければわからないであろう。五つの霊を送った直後に、自ら病に倒れ、死線を彷徨っている。
 河野家は代々仏教信徒の家であり、伯父の玉木巌雄が神職をしていたことで神道にも深く、また当時の戦争に傾倒していく日本国は天皇中心とした神道主義が強くなる中で、家族の不幸が立て続けに起こり、葬式を仏式で行いつつも、戦死者は靖国に祭られること、神や死や宗教観とは何かを吐露した当時の気持ちを綴った日記(昭和十六年三月二十四日 記)が「神道我観」というタイトルで雑誌に掲載された。なお、河野三次はその後、体調が回復し職場にも復帰。また後年はキリスト教を信仰するようになる。


*尾崎行雄(1858-1954.10.6)、号を咢堂。1890(M23)第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して初当選してから、以後63年間に及ぶ連続25回当選を果たした政治家。途中、東京市長(1903-1912)を約8年間務める。戦後も当選を重ねたが、1953(S28)バカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選し、94歳で政界を引退。衆議院から名誉議員の称号を贈られた。「憲政の神様」「議会政治の父」と称された。享年95歳。前妻は繁子で肺病を患い病没。後妻は英子セオドラ尾崎(男爵の尾崎三良の娘でイギリス人とのハーフ)。先妻の繁子が亡くなった翌年(1905)に再婚。墓所は鎌倉の円覚寺。


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