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こうの のりお

河野典男

こうの のりお

1928.11.19(昭和4)〜 2020.1.23(令和2)

昭和・平成期の実業家(東急建設)

埋葬場所: 8区 2種 27側

 東京府下荏原郡東調布町字下沼部(東京都大田区田園調布)出身。桜植樹運動家の河野一三、房(共に同墓)の4男(兄3人、姉1人、弟2人の7人兄弟)として生まれる。大東文化大学名誉教授の会計学者の河野一英は長兄。伯父(父の長兄)に緑井村青年会長や報徳銀行取締役などを務めた河野唯一。伯父(父の次兄)に土地開発事業家で政治家の尾崎行雄の秘書を務めた河野光次(同墓)がいる。
 小学校を卒業した後、父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進学したが、戦争が激しくなり、修業年限が短縮される。本土決戦の声も聞かれるようになったので戦って死ぬ決意をして海軍特別幹部練習生の試験を受ける。1945.5(S20)武山海兵団の砲術学校に入隊した。神奈川県藤沢市辻堂の練習場で砲術訓練を受けていたところ、本当に敵機が現れ、そのまま実戦を経験。元々おっとりしていた性格が、この訓練や実戦を経験したことで何クソ根性と度胸がついたと回想している。それ以来、どんな困難に境遇しても「あの時耐えられたのだから」と思うと少しも怖いと感じなくなったともいう。敵の機動部隊が相模湾に上陸してくる情報の元、手榴弾を渡され水際決戦に備えていたときに終戦を迎える。
 復員し実家に戻ったが、虚脱状態が続いていたところ、兄が復員した際に「これからは学校に行かなければダメだ」と叱咤激励をされ、'49 明治大学商学部の専門部に入り直した。'53.7 明治大学商学部卒業。卒業後、東急グループの社長であった五島慶太(当時は既に故人)と父が親しかった縁もあり東京急行電鉄を受けて合格し入社した。
 入社二年間は改札、出札、車掌、運転士としての勤務を経て、'55.5 私鉄経営者協会に派遣され、私鉄総連との団交や中労委交渉の事務局を務めた。'58 本社の東京急行電鉄勤労部に戻る。'61.2 創業1年ばかりの東急建設に出向し総務課係長となる。次長、'67 部長に累進し草創期の同社の経営中枢に関与。'69 東急建設の横浜副支店長に着任した。
 '71 乗用車を運転して高速道路の川崎インターにて前方不注意で照明灯に衝突事故をおこす。同乗していた部下は軽い怪我で済んだが、衝突事故の後遺症で左目を失明し左手が変形して不自由になった。
 職場復帰後は、本社総務部長、人事部長、横浜支店長を歴任。この頃、建設業界の他社に先駆けてグアムに進出し現地法人をつくる。石油ショックなどの影響で苦しい時期もあったが、切り込み隊長を買って出て、自らタイ、マレーシア、シンガポール、ハワイに乗り込み現地の提携先を探し、海外事業の発展を築き、更にシアトル、ロサンゼルス、バンクーバー、パラオ、バヌアツなどへエリアを広げた。
 '73 東急建設取締役、'76 常務、'78 東急建設の常務兼任して、東急道路の取締役に就任。'81 専務、'82 東急道路と世紀建設の合併交渉に関わる。東京支店長に着任した際には、折からの首都圏集中の波に乗り多角的な事業を展開。東京の用賀プロジェクトや羽田空港のJASの格納庫を手掛け、池上線戸越銀座から旗の台駅間で行った「直上高架切替工法」の開発、施工で線路を切り替えた。'88 東急建設の副社長に就任。東急建設の発展とともに栄進し、就任時1千億円であった事業規模を3倍に広げた。 
 '92(H4)世紀東急工業株式会社の社長に就任(後に会長)。同年、世紀建設と東急道路合併の立役者が世紀東急工業創立10年目に社長就任をした紹介も兼ねて、「月刊建設人」(建通新聞社)にて河野典男の半生が紹介された。「身長180センチ、体重100キロという巨漢で、事実なかなかの豪傑だが、相手の立場に立って考える繊細さも備えている。」という紹介から始まる。
 2002 茗水クラブ 第6代目会長、連合駿台会 初代会長を務める。2008 連合駿台会 第3代目会長、2012 明治大学顧問も歴任した。心不全のため逝去。享年91歳。告別式は品川区西五反田の桐ケ谷斎場で営まれた。喪主は長女の典子(のりこ)がつとめた。

<現代日本人名録>
<月刊建設人>
<唐澤貴洋Wiki恒心百科事典>


墓所 墓所

*墓所には二基建つ。左側が和型「河野家之墓」、裏面「昭和四十年十月 河野一三 建之」。右側が洋型「憩」とあり、裏面「建立 河野光次 / 再建 平成二十三年 川俣徹男」と刻む。それぞれの墓石側に墓誌がある。

*「河野家之墓」の墓石の左面が墓誌となっており、明治二十九年十月二十四日の四十三才で亡くなった一名の後に、勲6等の刻みと共に父の河野一三が刻む。戒名は泰嶽院慈篤洪道居士。次に母の房(1895.3.15-1971.6.14)が続き、戒名は泰明院椒房貞薫大姉。墓石左側に墓誌も建ち、河野一三、房、姉の喜久(1926.11.11-1996.3.28)、典男の妻の洋子(1931.11.5-1997.1.20)、河野典男の順で刻む。 

*兄弟は姉の喜久以外は全員男の6人兄弟。一英、英二、三郎、典男、櫻樹、六郎。父の河野一三が建立した多磨霊園の墓所は4男の河野典男が継いだ。真言宗智山派寺院の東光院(とうこういん:大田区田園調布本町)にも「河野一三家」と刻む墓所があり、長男の河野一英(1920.8.16-2015.7.24)が建之して代々が継承することになったと思われる。なお河野一英は大東文化大学名誉教授の会計学者でセンチュリー監査法人会長なども務めた人物。東光院の墓誌から河野一三、房、長男の河野一英、三男の河野三郎、長女の喜久が刻む。


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