広島県沼田郡緑井村(広島市安佐南区緑井)出身。先祖は伊予国の戦国大名の河野通直の末裔。河野唯助の三男として生まれる。長兄は緑井村青年会長や報徳銀行取締役などを務めた河野唯一。次兄は土地開発事業家で政治家の尾崎行雄の秘書を務めた河野光次(同墓)。伯父に神職の玉木巌雄。
1915(T4)頃、兄の光次に呼び寄せられて京城(ソウル)に渡る。平田百貨店の前身である平田屋に勤める。当時京城民団議員や農地住宅地の経営を行っていた村井啓助の妹の房(同墓)と結婚。'20.8.16 長男の一英が誕生したため、一カ月後、内地に戻り、郷里の広島を経て、東京の田園調布に一家は移住した。
'18頃より内務省は多摩川下流治水工事を行っていた。この結果、決壊を繰り返していた多摩川の防波堤を10数年かけて完成させたが、河口から20キロに及ぶ両岸の大堤防地域六百万坪は雑草に覆われ放任されていた。'29.2(S4)田園調布の高台の自邸の庭先から多摩川を見ながら放置するのはもったいないと考え、当時の町長の天明啓三郎を訪ねた。町長は屋根替に困ってるから、茅(かや)でも植えさせて貰おうかと言ったが、河野は茅の恩恵を受けるのは少数なので、長堤に植えるのは「桜」が良い。百年後の桜の名所をつくろうと伝えた。春は花、夏は鬱蒼たる緑樹帯にして京浜幾百万の健康道場をつくることを熱望。町長も大賛成した。桜の植樹を熱望した背景には、当時東京市長であった尾崎行雄がアメリカに桜を贈り、ワシントン・ポトマック河畔に植樹(1912)されたことに、兄の光次が秘書として関わったことの影響を受けたものとされる。
同.3.7 多摩川畔丸子園に雑談会が開かれた。発起人は河野と天明町長のほかに、近隣の東京側の町長や村長だけでなく、川崎市など神奈川県の多摩川添いの町長たちの一市八町の代表者と協議をし、両岸の長堤に桜樹移植の請願運動を起こすことに一決した。同.3.10 川崎市長の春藤嘉平は山梨県内務部長時代に甲府城跡に桜樹移植を唱道して実現させた経歴があったため、春藤市長を先頭に連盟市町村長一行は、望月圭介(6-1-16-12)内務大臣を訪問して、桜花と武士道を説き、桜の多摩川の実現に向けての第一回の陳情をなした。春藤嘉平は山形県知事に転身をすることになったが、河野が音頭取りとなり多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導するため、愛櫻會(あいおうかい:大多摩川愛櫻会)を創立させ幹事に就任。会長は当時横浜市長を務めていた有吉忠一が就任した。結果、多摩川の両岸10里に桜を植える念願を達成させた。
'30 大多摩川愛櫻会が旧中原街道切通し坂「沼部の大坂」の両側に桜の木を植樹し「桜坂(さくら坂)」と命名。70年後(2000)に福山雅治の楽曲「桜坂」として注目されることになる。また、'35 丸子橋の架橋を計画。東急社長の五島慶太に相談をし、東急電鉄に土地を寄附させ、丸子橋の建設に関わり完成させる。
晩年、長女の喜久(同墓)の勧めで創価学会に入信。田園調布における有力者として田園調布風致協会常務理事・方面委員を務めた。勲6等。享年82歳。
*墓所には二基建つ。左側が和型「河野家之墓」、裏面「昭和四十年十月 河野一三 建之」。右側が洋型「憩」とあり、裏面「建立 河野光次 / 再建 平成二十三年 川俣徹男」と刻む。それぞれの墓石側に墓誌がある。
*「河野家之墓」の墓石の左面が墓誌となっており、明治二十九年十月二十四日の四十三才で亡くなった一名の後に、勲6等の刻みと共に河野一三が刻む。戒名は泰嶽院慈篤洪道居士。次に妻の房(1895.3.15-1971.6.14)が続き、戒名は泰明院椒房貞薫大姉。墓石左側に墓誌も建ち、河野一三、房、長女の喜久(1926.11.11-1996.3.28)、典男の妻の洋子(1931.11.5-1997.1.20)、四男で東急建設重役・世紀東急工業社長を務めた河野典男が刻む。
*房は三重県亀山町出身。村井林七の娘。房の兄は村井啓助で当時、朝鮮で20町歩を超す農業地や住宅地の経営や、朝鮮龍山水産取締役、京城民団議員などを務めていた人物。京城の平田屋に勤めていた河野一三に嫁いだ。二人の間には6男1女を儲ける。一英、英二、三郎、典男、櫻樹、六郎、長女の喜久。
*先祖の伊予国の戦国大名の河野通直の墓は広島県竹原市の長生寺にあり、代々墓守をしてきているため、父の河野唯助や長男の河野唯一の墓は長生寺であると推測する。分家をした二男の河野光次と三男の河野一三が多磨霊園に墓所を構えた。なお、河野一三の墓所は田園調布の自邸の近くにある真言宗智山派寺院の東光院(とうこういん:大田区田園調布本町)にも墓石が建つ。東光院の墓は正面「河野一三家」と刻み右側に白文字で「大多摩川 愛櫻会 さくら坂 創設者」と刻む。墓石には家紋ではなく「大多摩川愛櫻会」の紋章が刻む。東光院の墓所内墓誌には、河野一三、妻の房、長男の河野一英、三男の河野三郎、長女の喜久が刻む。多磨霊園の河野家墓所は一三の四男の河野典男が継ぎ、東光院の河野家墓所は長男の河野一英(1920.8.16-2015.7.24)が建之して代々が継承することになったと思われる。なお河野一英は大東文化大学名誉教授の会計学者でセンチュリー監査法人会長なども務めた人物。