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ほしの しゃく

星野 錫

ほしの しゃく

1854(安政1.12.26)〜 1938.11.10(昭和13)

明治・大正・昭和期の実業家(印刷)、
日本初女性事務員採用者

埋葬場所: 6区 1種 9側 7番

 江戸出身。播磨(兵庫県)姫路藩士の星野乾八の長男。幼名は錫一郎。成人後の通称名を錫とした。名は「せき」ともよむ。弟の星野鏡三郎(同墓)は鹿島組から独立し鉄道敷設事業家、明星学苑の前身の学校である明星実務学校の設立に尽力した。
 姫路藩の藩校で学び、1873(M6)景締社で印刷工となる。1887アメリカに留学、アートタイプ(コロタイプ)という、感光液を版材に塗布する写真版印刷を日本人で初めて修得。帰国後、王子製紙に入る。
 1890第三回内国勧業博覧会にアートタイプ印刷の絵画を出品し入賞。画報社を設立し『美術画報』『美術新報』の雑誌を発行。また写真入り新聞の創刊に協力し、印刷の新分野を開拓。
 1896王子製紙から独立し、東京印刷株式会社を設立し専務、後に社長に就任。『満州日々新聞』発刊や債権、絵葉書などの印刷業で事業を拡大した。海外の実業界を視察して週休制の導入や女性事務員の採用など実業界全体にも多大な貢献をした。1912衆議院議員に当選。東京商業会議所副会頭・東京事業組合連合会長をはじめ、大日本精糖・日本陶料・東亜石油などの取締役を務めた。従5位 勲3等。享年84歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<近代日本の先駆者>


墓所(全体) 墓所

*墓石は和型「星野家之墓」。左面に「昭和八年十一月六日 星野正一 建之」。裏面に星野鏡三郎と妻の花子の戒名・俗名・没年月日・行年が刻む。右側に「従五位 勲三等 星野 錫 墓所」の石柱が建つ。左側に墓誌があり錫は刻まれておらず、星野鏡三郎を初代とし以降が刻む。

*星野乾八の子供は5男1女。長女がたく、長男が星野錫(錫一郎)、二男が諤次郎、三男が鏡三郎、四男が廣吉、五男が撒函壁穎藩士の村上家に養子)。

*星野錫の妻は さよ(浦野)。子爵の渋沢栄一の子の辰雄を養子に迎えている。他に養女に つる(安本明治郎の妻)、まつ(川崎甲子男の妻)もいる。星野辰雄は立教大学教授を務めた。なお、同墓所に星野辰雄の刻みはないため別墓であると推測する。


【幻の野球場「東京臨海野球場」とプロ野球発足の経緯】
 1932(S7)星野錫は「株式曾赴東京臨海野球場」創立委員長に就任した。これはアメリカの職業野球を模して本格的な、12万人が収容できるプロ野球専門のスタジアムをつくろうと計画され、株式曾赴東京臨海野球場を発足。球場の場所は東京市芝区芝浦埋立地で、芝浦海岸と品川駅寄り貨物積込所の中間に位置としての壮大な企画です。
 当時の野球は「する」スポーツとしてが主流で、高校野球、大学野球が大人気でした。しかし、選手たちのその先がありませんでした。六大学野球は神宮球場、高校野球は甲子園球場であり、それ以上を誇る野球場もありません。また一般大衆がお金を出してまで野球を観に行く習慣はありませんでした。
 アメリカのように、日本にも職業野球をつくりたい。野球に可能性を見出した人物たちが動き出します。日本のプロ野球(職業野球)が本格的に始まる(1936)四年前の出来事です。
 このスタジアム構想は野球の一般化と野球を法人という自由な立場の下に普及させ、野球を通して国民思想養成と体育奨励に貢献することを目的としました。また市井のファンを獲得することで、ラジオ放送を通して広く宣伝をして商業化していきたい。そんな設立趣意書を作成し株式にの募集を行い投資家を募りました。
 当社専属の職業野球チームをつくることで、グランド貸による試合収入及び、ホテル経営収入などは相当の見込み有りで、指定席などのチケット収入など莫大とうたっています。しかし、まだ職業野球がなかった時代、ピンとくる投資家もいないと踏んで、他の営利面では、野球場のスタンド下を貸倉庫として海陸両方面の貨物を収容でき6千坪分収入があること、スタンド下2、3階の2004坪分を貸アパートに利用する設計にし、二重の利益を得ることなども書かれています。貸グランド収入としての年間試合数は、大学の春秋18試合、外来チーム試合春秋8試合、中学選抜試合、当社専属チーム試合などの一般チーム春夏秋270試合と想定していました。
 壮大過ぎた計画は残念なことにとん挫してしまいました。この計画の発表二年後、1934(S9)ベーブルース率いるアメリカ大リーグ選抜野球チームが来日し、日本縦断で試合を行い大盛況。職業野球の機運が高まり、1936(S11)日本のプロ野球(職業野球)が本格的に始まりました。
 しかし、六大学野球リーグの反発で神宮球場が使用できなくなり、東京都内にプロ野球公式戦が行える場所が無く、同年7月1日の東京におけるプロチーム同士の初試合である東京巨人軍対名古屋軍の試合は早稲田大学の戸塚球場を借りて挙行されました。急きょ、杉並区に上井草球場、深川区(江東区)に洲崎球場が造られましたが、上井草は3万人という収容人員に比して交通の便が悪く、洲崎は東京湾の埋立地に造られた海抜は僅か40〜60センチのため、満潮時にたびたび球場が浸水し試合中止になる問題を抱えていました。
 1920(T9))押川清(17-1-45)、河野安通志、橋戸信らと共に、日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)を創設。本拠地となる芝浦球場を建築。関東大震災で芝浦球場が「震災復興基地」として差し押さえられたため、1924年(大正13年)1月23日解散。幻のプロ野球企画がありました。かねてからフランチャイズ制を提唱していた押川清(17-1-45)や河野安通志の志は折れてはおらず、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと計画しました。
 読売新聞社の正力松太郎や阪急電鉄の小林一三らの出資を仰いで、同年12月に株式会社後楽園スタヂアムを設立。東京砲兵工廠の工場機能が福岡県小倉に移転したため空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、内野2階建てスタンドを持つ野球場が建設され、1937.9(S12)に開場した。また同じ年に後楽園は直属の職業野球団として後楽園野球クラブ(イーグルス=のちに黒鷲軍、大和軍と改称)を設立し、押川が社長、河野が常務兼総監督に就任して、球場内に球団事務所が置かれました。

<「株式会社の実際」長谷川安兵衛 など>


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