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ほしの きょうざぶろう

星野鏡三郎

ほしの きょうざぶろう

1859(安政6.12.11)〜 1932.12.6(昭和7)

明治・大正期の実業家(土木・鉄道敷設事業)

埋葬場所: 6区 1種 9側 7番

 江戸出身。播磨(兵庫県)姫路藩士の星野乾八の三男として生まれる。兄に実業家(印刷)の星野錫(同墓)がいる。
 慶應元年7歳にして藩侯酒井家邸内の学問所に入ったが、幕末の国情騒然たる折から3年後に退学せざるを得なくなり、明治維新で父が失職したことで、父母兄弟と共に流浪の生活に陥る。女中の実家だった浅草の瓦屋に身を寄せていたところ、鹿島岩吉(鹿島建設創業者)に見いだされ、1870(M3)11歳で鹿島方の丁稚となる。15歳にして早くも倉庫担当に抜擢され、18歳で地方出張所の会計を命ぜられ、独学で代人の地位を築いていった。
 1879(M12)鹿島岩吉の元を離れ、次代の鹿島岩蔵の下に鹿島組の組織が起こるやその組員に列した。当時の建設業は「請負」と言われていた時代で仕事は労務管理が中心であった。1892営業部長に進み、諸種の官設、または私設の鉄道工事を担当。この頃の鹿島組の仕事は鉄道工事全盛期であり、1894日清戦争が勃発するや、仁川・京城間軍事鉄道敷設の命を受け、現地に出張して献身的努力で皇軍進撃に便した。1895東北線盛岡前後の工事の代人、後に碓氷峠の工事も手がけた。鹿島組では新見七之丞・池田亀吉と共に「鹿島の三部長」として名を馳せた。
 1896鹿島組を離職し、星野商店(星野組)を興す。主に鉄道工事並びにそれに関連する水力電気工事を専門事業とした。特にトンネル建設においては大きな業績をあげた。主な事業として京都鉄道、嵯峨・亀山間墜道工事、東京電燈桂川水路工事などの事業を請負い完成させた。'04日露戦争の際は、京釜鉄道(ソウルと釜山を結ぶ鉄道)、黄澗(ファンガン)トンネル、扶桑トンネル、第二漢口鉄橋工事等の最大難工事を請け負った。国家の危急に際して義勇公に奉じ、中途大患に犯されたるにも拘らず、利害を超越し、身をもって事に当り、予定より二か月も早く完工して我が軍の活動を敏捷有利ならしむるを得、非戦闘員ながら専門職務で日清・日露の両大戦に奉公できたことは終世の名誉と感じていたという。
 '05.5神奈川町地先海面埋立工事に着手、翌'06.6竣工。この埋立地は星野町、同域内の橋梁を星野橋と名付けられた(神奈川県横浜市神奈川区星野町:現在のコットンハーバー地区)。また、自らは幕末維新の騒乱により学問ができなかったため、職務に専心する傍ら、育英事業も行い後継者育成にも尽力した。
 '07鉄道工業合資會社を設立し理事となる(〜'09)。'14(T3)東京府貴族院多額納税議員の推薦を受けたが辞退。'19星野合資會社を創立し理事。'23教育事業実現に力を入れるため実業界を引退し、相談役となる。
 同年、星野が単独寄附した基金(私財20万円)をもとに、教育家の児玉九十が運営面を協力し、東京府下府中町(東京都府中市)に「明星實務學校」(学校法人明星学苑・明星大学の前身)を設立。児玉九十が星野翁の姓名を後世に伝えるためにと感謝の念から「明星」の校名とした。'27(S2)財団法人として明星中学校に改称。晩年は、学校の充実に意を持ち、人材輩出を唯一の楽しみとした(名誉理事長)。'31.11病を発し、伊豆伊東の別邸にて療養をしていたが、翌年「思ひ殘すことなし」を最後の言葉として逝去。享年72歳。

<人事興信録>
<「星野鏡三郎の事跡」高島秀樹 など>


墓所(全体) 墓所

*墓石は和型「星野家之墓」。左面に「昭和八年十一月六日 星野正一 建之」。裏面に星野鏡三郎と妻の花子の戒名・俗名・没年月日・行年が刻む。右側に「従五位 勲三等 星野 錫 墓所」の石柱が建つ。左側に墓誌があり戒名は明徳院鏡譽清日正道居士。

*妻の花は後藤広貞の長女。長女の久子(同墓)は1歳で早死。長男の星野正一(同墓:1908-1969)は星野組の相談役、正一の妻は細矢正(同墓)。北村とよの娘の房子を養女とした。房子は陸軍少将の市瀬敬三郎の妻となる。なお、1933児玉九十が『父の思出』を刊行した際の出版人は星野正一。

*鹿島組に所属していた時の名は芳田鏡三郎といった。なぜ芳田姓であったのかは不明。また当時の土木・鉄道敷設事業の功績より「土木の神様」と称された。


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