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こにし まさお

小西昌生

こにし まさお

1892.8.19(明治25)〜 1942.3.5(昭和17)

大正・昭和期の陸軍軍人(輜重兵大佐)、小西自動車部隊

埋葬場所: 20区 1種 10側

 香川県長尾町出身。小西彌七郎の8男。1915.5.25(T4)陸軍士官学校を恩賜卒業(27期)。同期に後に火薬製造法発明者の勝村福治郎(後の中将:24-1-22)、青木政尚(後の少将:20-1-30)、楠木延一(後に少将:20-1-21)、小堀金城(後の少将:14-1-23)、小松崎力雄(後の少将:11-1-12)らがいた。同.12.25 輜重兵少尉に任官。その後、陸軍砲工学校高等科を経て、東京帝国大学工学部卒業。
 「輜重」(しちょう)とは軍隊で、前線に輸送・補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称のことであり、輜重兵は軍需品の輸送、補給を任務とする兵站(へいたん:ロジスティクス)を担当した。兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれる。軍事学において極めて有名な格言「戦争の素人は戦略を語り、戦争の玄人は兵站を語る」と言われるように兵站は軍事上におて重要な役割である。
 '25 陸軍自動車学校が設けられ教官に就任。シベリア派遣軍に附従し終始一貫、自動車の改善や進歩に関わり、飛躍的な発達に貢献した。さらに欧州諸国を巡回し、自動車に関する技術研究を行い、工業的助成に努む。'34.10(S9)少佐の時に東京月島4号地にて開催された四輪自動車レース「全日本自動車競走選手権大会」で審判を務めた。
 満州事変をきっかけに支那事変へとなるに際しては、陸軍自動車学校で編成された自動車隊が送られ、関東軍(野戦)自動車隊長に就任。九四式六輪自動貨車を主としたが、他方で、日産80型トラックなど内外の民間用四輪トラックもそのまま軍用車両として使用。小西自動車部隊は活躍し評価関心は高まったが、常に地形の問題があり、道路を建設改修する必要性など制限を受けるという理由で、戦地では自動車化はなかなか進まず、馬が輜重の主力を占めていた。
 戦地にて病を得て、帰朝後は東京陸軍病院にて療養したが戦病死。正5位 勲3等。享年49歳。没後、妻の小西和華が『轍の痕 小西昌生追悼録』(1943)を刊行した。

<墓誌碑などより>


*墓石は和型「小西家之墓」、左面から裏面にかけて小西昌生の略歴が刻む。略歴最後に「昭和十八年一月十七年」に記した旨が刻む。右側に墓誌が建ち、小西昌生から刻みが始まる。戒名は忠亮院殿光譽昌盛大居士。「陸軍大佐 俗名 小西昌生」と刻む。妻は小西和華。


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